頭の上にミカンをのせる

もうマンガの感想だけでいい気がしてきた

みいちゃんと山田さんが完結したし、「ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ」のチエミでも思い出すか・・・

みい山に関する論点整理については大野先生がもう全て書いてくださってると思うので丸投げするとして。


私はせっかくだから辻村深月の小説『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』(2009年)の望月チエミと、みいちゃんを並べてみます。


昔この作品にかなり引っかかった方なので、


読んでもいない人が匿名ダイアリーの「炎上だろうと注目されれば勝ち」な炎上系インフルエンサーや炎上マーケティングみたいな、SNSのダメな部分と同じ構造」という分析してるのはいくらなんでもひどいと思う。


炎上している作品について語る時、その人の底の浅さが露呈する気がしますね。


少なくともちゃんとテーマというか題材に刺さる要素はあったでしょ、という点はちゃんと言っておきたい。

www.tyoshiki.com
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未完成な作品だけれど、「世の中には救いきれないものがある。それでも生きていくしかない」ってのを真正面から描いてくれていたと私は感じたから。当時どん底だった私には本当にこの漫画を読んでとても救われる気持ちになった。この作品、とある人物以外はみんな仲良しなんですよね。そんな中に一つだけ異常な人間が混じってる。そして、その異常さはほかの人には理解できないから「見えない」んですよね。それをそこそこ主人公だけが見つけ出してしまう。見つけ出しただけで、問題を解決なんてできないまま終わってしまうのだけれど、「見つけられる」というだけでも救われるってことがあると思うんですよね。



本作品において周囲がチエミの「無邪気さ」や母娘の親密さに「気持ち悪い」「地雷を踏まれる」と感じ
自分の中の傷や「普通」への願望を投影してしまう点はみいちゃん比較に非常に適していると思います。
私は「みい山」がこれだけ話題になったのはなんか色んな人が自分だとか「身近な存在」や「蔑みたい対象」をみいちゃんや山田さんに投影して楽しむような読み方をしていたからであり
逆に言うと、みい山はそういう「投影するもの」がない人には、まじで底辺の世界ではそこかしこに転がってそうな退屈な作品なのだと思います。


前提となる人物像

みいちゃん
母親(知的障害のある実母)や祖母から「普通なら与えられるべきもの」(適切な養育、福祉接続、教育、社会的保護)をほぼすべて奪われた「丸裸の幼い愚者」。
結果として性産業やDVに転落し、最終的に殺害される。 被害者的要素が強い。

チエミ(望月チエミ)
山梨のさくらんぼ農家の娘。表面的には母親・千草と「誰もが羨むほど仲が良い」関係を築いていた。
妊娠を報告した際に母親が激しく反対し、包丁を持ち出してもみ合いになった末に母親を刺してしまう(過失に近い形)。
母親は死の間際に「逃げなさい」「産んでもいいから」と許し、暗証番号「ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ」(チエミの誕生日)を伝えて金を託す。
チエミは逃亡し、赤ちゃんポストを目指す。

類似点

1:母親から「奪われた/傷つけられた」娘

みいちゃんは母親側の無能力・無関心によって保護を完全に剥奪され、社会に投げ出されます。

チエミは母親の過剰な親密さ・支配(「仲が良い」という形の束縛)によって、自立や妊娠という選択を奪われかけます。
どちらも「母親という存在が娘の人生を決定的に歪めた」ケースです。
小説の冒頭の「すべての娘は、等しく自分の母親に傷つけられている」という一文が、両者に通底します。


2:周囲が「自分を投影して」反応する存在

「ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ」側にある下記のような表現は

「気持ち悪いって事を認めさせったかった」
「無邪気さをいいってかわいいって思う人もいるけど、私にとっては地雷」
「傷つけられても反感を覚えない娘に苛立つ娘がここにもいる」
「誰もみな、そこに自分を見るから、チエミをほうっておけない」

みいちゃんに対する読者・周囲の反応と驚くほど重なります。

みいちゃんの「幼い愚者」的な無邪気さや社会不適合も
多くの人が「かわいそう」「見ていられない」「自分の中の脆弱な部分を映している」と投影し、放っておけなくなる。
チエミの場合も「普通じゃない母娘関係」に自分の母娘傷を重ねて、執着や苛立ちを覚える構造です。


3:「普通」からの逸脱と、それに対する視線
みいちゃんは「普通の枠を外れる異常」として共同体から排除・消費されます。
チエミも「誰もが羨む仲良し母娘」という一見理想的な関係が、実は異常であり
周囲(特に他の娘たち)に「あなたの家は異常である」と断じたくなる衝動を引き起こします。
どちらも「普通」という枠組みの暴力性を浮き彫りにします。



普通といえば本作品におけるはてブ民の暴力性はなかなかすごかったです。
実際には異常者の集団でありながら何としても自分は普通であると思いたがっているからだと思うんですが
まじで「普通」に異常に固執するはてブみたいな集団って、なんか自分がマジョリティだと思うと急にめっちゃ暴力的になるのなんなんですかね…


相違点

1:被害者で終わるか、加害者に転じるか
みいちゃんは最後まで被害者として殺されます。母親から奪われたものが、彼女を無力なまま社会の闇に沈めていく。

チエミは母親から傷つけられた末に、結果として母親を刺し殺してしまいます。
被害者が「加害の側」に回る点で、物語は大きく反転します。
しかも母親は死の間際に娘を許し、逃げるための手段を与えるという、複雑な「救済」が描かれます。


2:母親との関係の質
みいちゃんの母親は無能力でほぼ不在に近い。「奪う」行為は消極的・構造的な形で読者の中にはそれが見えなかった人もいます。
どちらかというと奪ったのは祖母の方が強い。

チエミの母親は過度に密着し、積極的に娘をコントロールしようとする。
「奪う」行為が愛情の形を取っているため、より心理的に息苦しく、周囲が「気持ち悪い」と感じやすい。


3:物語の焦点と帰結
みいちゃんの物語は社会的排除と搾取のリアリズムで、希望がほぼない虚無的な終わり方。
チエミの物語は母娘関係・地方と都会の格差・女性の30歳前後の息苦しさを軸にしつつも
逃亡と再会を通じて「すべての娘は救われる」方向へ少し開かれます。
チエミは「何にもない」と呟きながらも、主人公であるみずほとの絆や母親の最後の行為によって、完全な絶望には落ちません。


4:「無邪気さ」の扱い

みいちゃんの無邪気さは「愚者」として消費され、破壊を招く。
チエミの無邪気さ(母娘の親密さ)は周囲を苛立たせ、「悪意を教えたい」衝動を引き起こす。
最終的にはその無邪気さが母親の許しと結びついて、物語に救済の余白を残します。

まとめ

みいちゃんとチエミは、どちらも「母親によって人生を大きく傷つけられた娘」であり
周囲が自分の傷や「普通」への願望を投影して反応せずにいられない存在です。

チエミに関する描写はみいちゃんに対する「見てしまう・放っておけない」視線とほぼ同型です。

ただし、みいちゃんが山田に少しだけ行きた爪痕を残した程度で「奪われたまま被害者として終わる」のに対し
チエミは「奪われそうになった末に母親を刺し、加害者として逃亡する」点で決定的に異なります。

チエミの物語は「傷つけられた娘」がただ 消費されて終わるのではなく
母娘の愛憎の極限で「逃げなさい」という許しを得るという、より複雑で救済の可能性を孕んだ形を取っています。

「すべての娘は等しく母親に傷つけられている」というテーマを
みいちゃんは社会的・構造的に、チエミは心理的・親密さの形で体現していると言えるでしょう。