頭の上にミカンをのせる

もうマンガの感想だけでいい気がしてきた

「嫉妬」という感情をあまりネガティブに捉えないほうが良いと思う

anond.hatelabo.jp

ツッコミどころが多すぎる・・・一通りツッコんだうえで

「そもそも嫉妬って概念についてはこういう風に考えたほうがよくない?」という部分を有料部分で書きますね。




「抑圧された過去」は他人を叩く免罪符になるか?——「りくりゅう」バッシングに見る、嫉妬の巧妙なすり替え

フィギュアスケートのペアとして世界を魅了し、ミラノ・コルティナ五輪での金メダル獲得、そして婚約発表。まさに幸福の絶頂にいる「りくりゅう」こと三浦璃来選手と木原龍一選手。ネット上には祝福の声が溢れる一方で、彼らの親密な振る舞いに「嫌悪感」を抱き、執拗なバッシングを繰り返す人々が一定数存在します。



なぜ、赤の他人の幸せな姿を見て、これほどまでの攻撃性を剥き出しにするのか。その「不快感」の正体を探っていくと、「元加害者の自己分析」という、インターネット心理の深淵を覗き込むような興味深い資料がありました。この記事には、過去に開示請求を受け、慰謝料を支払った経験を持つ人物が綴った、「私が他人を叩いた理由」が記されていました。





しかし、そこには、自らの攻撃性を「過去の抑圧」という隠れ蓑で正当化しようとする、現代特有の巧妙なロジックが凝縮されているのです。


「抑圧」が攻撃に変わるまでの、悲しきオートメーション

加害側の主張によれば、他人を叩きたくなる衝動は、本人の意思を超えて作動する「プログラム」のようなものだといいます。その心理プロセスを整理すると、以下のような段階が見えてきます。







1. 幼少期の抑圧:厳格な親や家庭不和、いじめ、あるいはオタク界隈のような閉鎖的なコミュニティでの厳しい規範に晒される。
2. 自己肯定感の低下と「自他境界」の曖昧さ:ありのままの自分を肯定できず、自分と他人の境界線が不鮮明になる。
3. 「人前で恥をかくこと」への過剰な恐怖:潔癖なまでの規範意識が植え付けられ、目立つことや奔放に振る舞うことを極端に恐れるようになる。
4. 投影と羞恥心の発生:他人の親密な行動を見た際、それを「もし自分がやったら」と無意識に投影し、勝手に激しい羞恥心や恐怖(デジタルタトゥーへの懸念など)を感じる。
5. 「品位」という大義名分への転換:その不快感に耐えられず、「公共の品位のため」「周囲が迷惑している」という理屈を後付けして攻撃を開始する。




本人にとって、この不快感は「自動的に湧き上がる不可抗力」であり、攻撃は正当な防衛反応であるかのように感じられている。
この「自動化された被害者意識」こそが、バッシングの免罪符として機能しているのです。


「自己肯定感が低い人間、責任意識が希薄すぎて、ある意味権力者よりも傲慢になりがち」現象が可視化されてますね。


それは本当に「嫉妬」ではないのか?——ラベルの貼り替えという欺瞞

加害者はしばしば、「これは嫉妬ではない。純粋な羞恥心や不快感だ」と強弁します。しかし、その論理には致命的な欠陥があります。

「嫉妬と解釈できる材料が多分に含まれている」「嫉妬100%ではないことだけ示せれば無罪になると考えているのか。どこの国のルールなのか」といいたい。





そもそも嫉妬とは、「自分が持っていないもの、あるいは自分には許されないと感じているものを他人が享受している」という比較構造から生まれる感情です。



加害者が「自分があんなことをしたら晒し者になる」と怯えながら、それを平然と行う相手を叩くとき、その根底にあるのは「自分には許されなかった自由」への強烈な羨望に他なりません。
心理的な要因が複数混ざり合っているのは当然であり、「羞恥心があるから嫉妬ではない」という証明にはなりません。むしろ、羞恥や恐怖こそが嫉妬を駆動させるエンジンなのです。




「自分にはできないことを、なぜこの人たちは享受しているのか」という不条理な怒りをぶつけてるわけですから、100%ではないにしてもかなりの部分は嫉妬だし、そもそも嫉妬したとしても普通の人は叩き行動をせずに立ち止まれる。そう考えると肝心の部分の説明から逃げてるだけなんですよね。

別の言葉に貼り替えて「無罪」を勝ち取ろうとする姿勢は、あまりに知的誠実さに欠けていると言わざるを得ません。




「あなたはロボットではない」——他責思考が生む独特の「腐臭」

攻撃者の自己分析から漂ってくるのは、強烈な「他責の腐臭」です。



「自分は過去の抑圧によってこうプログラミングされた被害者であり、攻撃するのは仕方ないのだ」という主張は、自らを意思を持たない「ロボット」に貶める行為です。



冷静に考えてみてください。特定の刺激に対して不快な感情が湧くこと(自動思考)とそれをわざわざSNSに書き込み、見知らぬ他人を攻撃するという「具体的な行動」の間には、明確な意思決定の境界線が存在します。




驚くべきことに、この加害者はかつて開示請求を受けて慰謝料を支払うという、社会的・経済的なペナルティを既に受けています。それだけの「現実の重み」を突きつけられながら、なおも自身の行動の原因を過去の環境に求め、主体性を放棄し続ける姿勢には、空恐ろしささえ感じます。

感情が生じるのは不可抗力かもしれませんが、それを「攻撃」という形に変えて出力するかどうかは、常に「今」の自分の選択なのです。



実際人間には自動思考というものがあり、意識しないとほとんどこの自動思考の通りに動いちゃうわけですが、そこで「このネガティブな感情は自動思考だからどうにもならない。自分では制御できない」とかいって許されるのは中2までだからね。大人になっていまだにそんなこと言ってる人はプリントアウトしてメンヘルへいくべき。

emol.jp




「N=1」の物語を、集団の正義にすり替える危うさ(自分の異常性の認識、やましさから逃れるために女性全体を貶める、女性によるミソジニー)

もう一つの大きな問題は、自分個人の歪んだ認知パターンを、「りくりゅうを叩く女性全体」の心理として一般化しようとする点です。世の中には、同様に、あるいはそれ以上に厳しい抑圧を受けて育った人は無数に存在します。しかし、その大半は他人の幸福を呪い、攻撃の刃を向けるようなことはしません。個人の人格的な課題を「抑圧された者たちの代弁」という社会的な構造問題にすり替えることは、極めて危うい行為です。



さらに言えば、こうした「抑圧された女性だから攻撃的になるのは仕方ない」というロジックを振りかざすことは図らずも「抑圧された女性は感情を制御できない不安定な存在である」という、悪質なミソジニー的言説であると言えます。 女性から女性に対するミソジニーです。 個人の責任を社会の物語の中に逃がすことで、結果として同じ境遇にある他者をも貶めている事実に、無自覚すぎるのが大変に気持ち悪いです。



みい山騒動のときにも思いましたが……なんかネットで正義感つよめの発信をしている一部の女性の方々は、自分というN=1の感情とか倫理を全体にすぐ敷衍しがちですよね……その自分の感情標準だという思い上がりはどこから来るんですか? それとも単に自他の境界認識がゆるすぎるだけ?


感情の責任を誰が負うべきか

私たちは、自分の内側に湧き上がる不快感や嫉妬、劣等感を完全にコントロールすることはできません。過去に受けた傷や、それによって形成された認知の癖を変えることも、容易ではないでしょう。

しかし、その感情をどう扱うか、特に「他者への攻撃」という形に変換するかどうかについては、私たちは100%の責任を負っています。

「私は今、強い嫉妬と不快感を感じている。それは私の過去の傷が疼いているからであって、相手に非があるわけではない」

このような、苦しくとも成熟した自己認識こそが、負の連鎖を断ち切る唯一の道です。他人の幸せを呪いたくなったとき、一度立ち止まって問いかけてみてください。

あなたの指先がスマホの上で動くときそれは本当に「過去のプログラム」に操られているのですか? それとも、今この瞬間の、あなたの「意思」ですか?

少なくとも他人は後者だと認識することを忘れてはダメだし、こんな言い訳をして通ると思っているなら今すぐ認識を改めたほうが良いと思います。




おまけ:それはそれとして、「嫉妬」についてはこういう風に考えたほうがいいんじゃね?というお話

たぶん増田は「嫉妬」という言葉を“醜い感情”として捉えすぎているのが一番の問題だと思います。

なので、「嫉妬するな」ではなく、「嫉妬を自分の人生の情報として使う」というわりとありふれた手法が良いと思います。

6秒我慢しようとかいうやつじゃなくて、医師指導のもとで行うガチのアンガーマネジメントと同じ手法ですね。

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