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「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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コミュニケーションの場

まとまりのない話になってしまった。

ハイコンテクストな世界とローコンテクストな世界

もうすごく大づかみな話として「小説家になろう」や「ニコニコ」、「美大」のような世界と、オリンピックやら何やらのパクリ指摘の間にあるものってなんなんだろうかな、と思う。


なにやら「いわさきちひろ」に関するパクリ問題が話題になっている様子。話題そのものには「またか」という感じであんまり興味ないのでリンクも貼らない。


にわたまの話になるけど、ハイコンテクストな世界はパクリやパロディは当然のように許容されるし、同じようなネタや前提知識をみんなで共有する場所は次第にハイコンテクスト化していくとかそういう話かな、と。ハイコンテクスト世界とローコンテクスト世界の衝突ってのは別にどこにでもある話だからいいとして、これに著作権が絡んでくると途端にめんどくさくなるよなーと。みんな著作権についてよくわかってなくて、それゆえに好き勝手な解釈で騒ぐ、くらいかな、と。

さらに言えば、ローコンテクストな世界を通り越して、コンテクストそのものが存在しない真空というか無法地帯があるようです。シロクマさんが数日前に「恐ろしい恐ろしい」と念仏を唱えていたやつですね。そういう場所では、もはや何かまっとうな基準があると考えないほうがいいですね。傾向としては一応正しい方向になりやすいですが、扇動次第で簡単に悪い方向に傾くような世界。「安全」や「妥当性」と言ったものの基準が存在せず、次に何が起こるかわからない世界。私はちょっとそういうところで生きていける自信がないし、そういう世界で生きてる人とはあんまり関わりたくないかな、と思うくらいです。そういう人たちがそういう世界だと理解して生きているならいいですが、単に自分たちのいる世界の危険性に気づいてないだけのような気もするし。

そういう「リスクが大きすぎて割にあわない」世界がいよいよ顕在化しつつ有りますよね、という話かな、と。


ローコンテクストの住人にネットでリテラシーについての話や歴史や文脈を説明するコストはたいてい無駄になる

とはいえ、今更そういう人たちにリテラシーの話とか、手続きの話しても無駄だと思いました。最低限のレベルですら無理です。私はこの件に関して、とある人に対して他の人よりかなり辛抱強く説明するよう努力したつもりですが、その経験からしてもう無理だと諦めざるを得ないと言って良いと思う。

彼らはリテラシーや手続きに価値が無いと思っているのではなく「自分たちに都合の悪いもの」は全て嫌いなのです。自分に都合のよいリテラシーや手続きについては声高に主張してたので間違いありません。リテラシーや手続きを共有したほうがコストが低くなるという感覚や、共有しているリテラシーに反した結果自分が痛い目に合うという経験は、リアルでちゃんと生きようとしないと得られない。大学生や無職にはそもそも必要ないものでしょう。むしろそういうことに適応できなくてネットに逃げ込んできた人にそれを言っても余計なお世話やトラウマ刺激にしかならないのかもしれない。じゃあもうそういう人たちとは関わらない、線を引くしか無いよね、と。

繰り返すとリテラシー教養といっても、それぞれが歴史や文脈なんかを踏まえて発言しろっていうのはネットでは無理だろうし、説明しても無駄になる。リアルでそういうのを求められすぎる反動でネットはそういうのを極端に嫌う人が多いのだろうから。

もうとっくにオープンの世界ではコミュニケーションが「割に合わない」ようになってる

なら、断絶した人たちはできるだけ接点を持たないようにするしか無いのかもしれないですね。アーキテクチャーというか「ここはそういう場です」って了解が取れてる場を作って意図的に特区化、ガラパゴス化してくしかないと思う。そうしないと、オープンの

ガラパゴス化をバカにする人たちもいるかもしれないけれど、リテラシーのない人たちからの指摘はもう無視するしかない。なろうやラノベについても、似たようなタイトルの作品ばかりが多いと文句付けたり、ニコニコもパロディネタがすぐにランキング独占してつまらないとかいう人いる。それはそれで指摘として間違いではない。ただ文脈を共有できない、外側の人間の意見なのだな、と理解するしか無い。

島宇宙だのタコツボ化なんて言われたたのはいつの頃だったかな。もうすっかり当たり前になってしまって言葉そのものが聞かれなくなってしまった。その頃はネガティブに取られられていたこの概念も、今はむしろ当然の帰結のようになってしまった。


一度クローズが前提になると、外部の人間と繋がるときは「ホーム・コミュニティ・コンテクスト」あたりが重視されるようになる?

本来の意味とはちょっと違うけれどホームは「責任所在」。私としてはブログか普段から利用してるツイッターアカウント程度あれば良い。実名まで求める人もいるが、それはその人の基準がそうだというだけで、実名匿名論争は個人事に結論違うので話すだけ無駄。

コミュニティは「嗜好」。何を好み、何を嫌うかがわかること。好みや嫌いに対してどういう態度を取るのか。

コンテクストは「礼儀」。自分が詳しくないコンテクストにも最低限の経緯を払うことができること。コンテクストを理解するための基礎力として最低限の論理的思考ができること。

こういのが全くわからない、あるいはそもそも持ち合わせていない相手とはコミュニケーションコストが高すぎて「割にあわない」ことになりがち。

そう判断された人は、やはり接していて怖いし距離を取られやすい。私もこないだとある人からそう判断されたようです。相手によっては誰でもそうなる。それはリアルと一緒で、ネットでもそうなんだろうと思う。