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「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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英仏百年戦争(中編) リチャード2世とシャルル6世

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(「英仏百年戦争」p234より)

百年戦争前編はお互いに見どころがある戦いをしていたのだけれど、中編は最悪の時期。お互いに内政が乱れた。そして後編はこの中編に出来た不良債権の後始末をつける、というあまり前向きでない戦いであった。

とはいえ、イングランド側は、ダメな王様はさっさと排除されたのでまだ立て直しが聞いたが、フランスは長期間在位したため傷口が広がった。すでにイングランド川は「失地王ジョン」がやらかして、逆にフランスも「ジョン2世」がやらかしているが、百年戦争を通してもっともダメなのがこのシャルル6世だろう。

幼いころは叔父たちに政治を食い物にされ、途中で狂ったまま長期間在位し、せめてイングランドと和平を維持できればよかったが戦った挙句決定的な敗北を喫して領土を奪われ、さらに王家継承で問題を残す。気の毒な面も無いわけではないが、まぁなんというか結果を見ると無能ってレベルでは済まされない。 大事な時にダメな王様が続くと、一台でもここまで国力って落ちるんだなぁ……。

このフランスのダメダメぶりが、「ジャンヌダルク」という特異点誕生の下地になるわけだけれど。


リチャード2世は10歳で即位、シャルル6世は12歳で即位。

どちらも内政に手こずり、戦争どころではなかったので、
両国間では和平に向けた交渉が繰り返された。

・1375年 ブリュッフェの休戦合意
・1384年 ルーランじゃんの休戦合意
・1396年 パリ全面休戦協定
(1426年まで休戦することを合意した。実際には果たされず)

リチャード2世の悲劇 →ランカスター朝

①即位した時幼かったため「ランカスター公ジョン」が評議会のトップとして戦争を主導する。

②1370年以降敗戦続きのイングランドだったが、戦費調達のために人頭税を開始したのでついに民の怒りが爆発し、「ワット・タイラーの乱」が勃発。一時ロンドンが占拠される事態に。

③リチャード2世はこの反乱後に親政を宣言する。評議会や主戦派の諸侯と対立するも、諸侯を抑える力がなく、後ろ盾のランカスター公が遠征に言った際に諸侯たちにクーデターを起こされて側近たちを取り上げられてしまう。

この時のクーデターの名前が「無慈悲議会」という。無怖公とか、残虐王とか、この当時のネーミングセンスマジで面白い

④ランカスター公が帰国した後、報復でグロスター公やアランデル公を処刑。しかし調子に乗って後ろ盾であるランカスター公の子供まで攻撃してしまったことで反撃を受けて王位を追われる。 ロンドン塔で幽閉されたまま死亡。

結局そのままランカスター公の息子ヘンリーが王位につき、ランカスター朝がスタート。

「狂王」シャルル6世の喜劇とフランスの分裂

人形同然の国王シャルル、淫乱王妃イザボー、いまだ幼い王子。王女の身柄を奪い合うかのように権力闘争は続いた

①4人の叔父に政治を私物化される(シャルル5世の弟であるアンジュー公、ベリー公、ブルゴーニュ公と、シャルル5世の妻ジャンヌの兄ブルボン公。特にブルゴーニュ公が摂政として国政を牛耳る)

②シャルル6世はこれに対抗して19歳の時に親政を宣言し、叔父たちではなく「オルレアン公ルイ」を重用する。

③1392年ころから精神に異常をきたし、1400年ころには政治を行えなくなる。これによりブルゴーニュ公が復権。オルレアン公と対立し、1407年にはブルゴーニュ派がオルレアン公ルイを暗殺する。


④当主を暗殺されたオルレアン派はアルマニャック伯を頼り、アルマニャック派を形成。ブルゴーニュ公と激しく対立。

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<内紛を起こした挙句、どちらの派閥も、イングランドに声をかけるという愚策に出る。これを見ても、こいつらはこの期に及んでも「フランス」と「イングランド」の区別なんて特にしてないように思う。>


「ヘンリー5世」がフランス侵攻を開始。フランスは戦争で負けるわ内輪もめするわで状況さらに悪化

⑤「アジャンクールの戦い」。フランス側は主にアルマニャック派が出陣するも、イングランド1万2000に対してフランス軍5万が惨敗。敗因も70年前のクレシーの戦いと同じ。いかにフランスの貴族軍が何の進歩もしない人たちかわかる

多数の死者を出した上「オルレアン公シャルル」が捕虜になったアルマニャック派は大幅に弱体化。


⑥アルマニャック派は王太子シャルルを国王総代として、パリに政府を建てて、王妃イザボーを追放。しかし、ブルゴーニュ派も対抗政府をトロワに樹立して反撃。翌年にはパリを占領して、ブルゴーニュ派がフランス王家代表となる。

⑦敵を目の前にして内紛起こしているフランスをよそめに、ヘンリー五世はフランスをどんどん占領していく。ブルゴーニュ公ジャンは、途中までイングランド王を支持していたが、ヘンリー五世がブルゴーニュやパリまで攻め入ってくると急に慌ててアルマニャック派に接近。

⑧とりあえずアルマニャック派とブルゴーニュ派が力を合わせてイングランドと戦うのかと思いきや、ここでアルマニャック派の王太子シャルルがブルゴーニュ公(無怖公)をモントレーで惨殺。仲間割れしてる場合じゃないのに、一番やってはいけないことをやりやがった。

ブルゴーニュ公がシャルル6世の立場で勝手に英国と同盟を結んだことで、「英仏二重王国」状態になる

⑨当然ブルゴーニュ側はブチギレて、跡継ぎのブルターニュ公(善良公)はアルマニャック派を無視してイングランド側に接近し、「イングランドブルゴーニュ同盟」を締結。もともとブルゴーニュ側はフランドル地方ネーデルラント継承戦争)の行方が大事であったから、そちらに配慮してくれるイングランド側を取ることになる。


ブルゴーニュ派は、狂ったとはいえ在位中の王シャルル6世、王妃イザボーを擁しており、さらにパリを抑えていた。このため、「ヘンリー5世」は「シャルル6世」との間に条約を結ぶことが出来た。

これが「トロワ条約」であり、この条約では完全にイングランドがフランスを支配することが決定された。

・ヘンリー5世がフランス王位の継承者となり、王太子シャルルは廃嫡される。
・ヘンリー5世は、シャルル6世にかわり摂政としてフランスを統治する


⑪当然ながら、アルマニャック派はこれを否認して受け入れなかったので、ヘンリー5世はこれを力づくで受け入れさせるためにその後も戦闘を継続した。



⑫シャルル6世が死ぬ前にヘンリー5世が死に、ヘンリー5世はフランス王家を継承できなかった。(トロワ条約の際にはまだ後継者が生まれていなかったため、自分の死後まで準備ができていなかった)。ヘンリー5世死亡後にシャルル6世が死に、それを受けて王太子シャルルは、シャルル7世を名乗った。ヘンリー6世がたったのはその後である。

一方ブルゴーニュ公は、イングランドとフランスの戦いを無視して、ネーデルラント継承戦争に熱を上げていた。



こういうフランスの悲惨な状況に、いよいよジャンヌダルクが登場する。