1つ前の記事「長谷川豊さんの比例1位は別に贔屓ではない。比例選挙の仕組みを確認しておこう。」で少し気になったのでヨッピーさんの記事に関してメイン主張の部分についても言及します。(二回目の言及なのでトラックバック飛ばないようにしてるつもりですが、もし飛んだらごめんなさい)
先の記事でも述べましたが、私はヨッピーさんが記事後半で語っている問題意識には同意です。
政治って多分にナーバスなもの、思想に関わる事だからか、何かしらの考えがあってもそういう議論を避ける人は恐らく多いし、今回の僕の事例の通り、結局の所は叩かれるし、そういった知らぬ存ぜぬの姿勢を取る事の方が賢いやり方であることは間違いないのだけど、でもそういう風潮って変だし、良くないことだよなぁと思っています。
現状で「国民はもっと政治に関心を持て」って言われたって、政治家は雲の上の存在だし、SNSで政治の話も出来ないし、マスコミもどんどん怪しくなってくるし、そしたら遠く離れた政治の事より、明日の会社の仕事の心配事を優先させるのが当然になる。こんな状況下で、どうやって政治に関心を持てばいいんだ。
ただし、賛同するのは、「政治的発言はもっと自由であってよい」の部分です。
「庶民感覚をもっと大事にすべき」とか「ネットにおける政治議論のハードルを下げるべき」という意見には賛成しません。「庶民感覚」というものがだいじだというのであれば、そんな抽象的な言葉ではなくもっと具体化して語るべきじゃないかな、と。
ヨッピーさんの主張は、このあたりがすごい雑に混同されているように感じるので抵抗があります。
というか。
むしろ今ってこの上なく政治的発言が自由であるからこそ、こうなってしまったのだと思っているからです。仕組みとして自由すぎたから、みんながその自由を持て余して自縄自縛に陥ってしまったのが現状です。
みんなのレベルが低く、関心もそれほど高くない状態であまりに自由にしすぎたという感じ。その結果、ネットの法則に従って馬鹿(声がでかい人)と暇人が好き勝手している状態なのが今なのではないでしょうか。無知やデマを流す人が一生懸命に活動し、ヘイトスピーチもひどいことになっている。そして、そういう情報の精査すらできない人たちが多いからこそ、ますますデマがはびこる。
そういう現状を見て、「もっと自由に」「もっとハードルを下げて」とかいうのは、あまりに楽観的すぎる。そんなことをしても、デマを信じた人たちが好き勝手にしゃべって、その誤りをただすコストが無限に膨れ上がるだけじゃないかなと思うんです。
だから、その前に、場の整備、いるよね? いまって庶民感覚でみんなが好き勝手政治的発言するのを推奨する局面ではないと、わたしは思っちゃいます。
将来的には自由になるべきでしょうが、ネットではむしろその逆でルール整備が必要だとすら思うのです。
「青少年保護」みたいなことを言うつもりはないから出来る限りこれは避けたいと思っていますが、現状は、「最低限のリテラシーレベルすらないは、間違った情報から保護されるべき」みたいになりかねないほど、いまって「庶民感覚」まみれになってて、政治的な思考ができてないですよね。
数学で、中学数学をやらずに高校数学や大学数学の話できるわけないのは誰でもわかりますよね。
英語でも、単語全然わからない状態だと話をするのが身振り手振りになりますよね。
なんで、政治の話は素人でもできると思うのか……。
いつまでも規制を緩和するなと言ってるわけじゃないです。
規制を緩和して自由に発言をできるようにしよう、というなら参加者にそれ相応の能力やマナーを求めるのは当然セットで考えるべきじゃないかなと。
とはいえ、私は政治についてはヨッピーさんに負けず劣らず無関心です。選挙には毎回いってますが、正直そんなに真剣ではない。期日前投票の必要があるとかだったら普通に投票サボる程度。もちろん知識なんてありませんからまともなことは言えません。
わたしも普通に政治については無知すぎるので、当然切り捨てられる側になっちゃう。結局、「物理的に投票にいく」というハードルは妥協点として今のところベターであり、これより良い選択肢が、いまのところあんまりあるとは思えないんですよね。悩ましいです……。
ヨッピーさんの「庶民感覚重視」が東浩紀さんの「一般意志2.0」とは違う話であることを説に祈ります
小田嶋隆さんもヨッピーさんと同じような主張をされておられます。本当に私だって、政治について話をする機会みたいなのは会ったほうがいいとは思います。
ただ、何を下敷きに議論をすべきか、くらいは考えないといけないと思ってます。何か議題や考える情報を提供して、それに沿って話ができるような仕掛けで出来たらいいですね。ヨッピーさんなにか仕掛けを考えられているそうなので、とても楽しみです。
私たちは、一方で、政治的なふるまいを厳しく制限されていながら、他方では政治的な権利の行使を義務づけられている。要するに、われわれは、二つの矛盾する要求の間で引き裂かれているのだ。ふだんの生活の中で、政治的なふるまいを制限しておいて、投票日にだけ政治的な人間になれというのは、そもそも無理筋の注文なのである。
政治の話題がタブーになればなるほど、政治の話を持ち出すことのリスクは高くなり、また、政治的な場での論争が険悪な人格攻撃に着地するケースも増えるわけで、この負のスパイラルは、どうにも止めようがない。私たちは、とてもやっかいな局面に到達していると思う。
われわれが、もっと普段から政治の話を自然に話し合える人間になれば、政治の話は、タブーではなくなるし、政治的な意見の違いも、決定的な対立につながらなくなるということだ。
東浩紀さんにいたってはその「庶民感覚」を過剰に信頼しすぎるあまり、「一般意志2.0」みたいなこと場で表現し、そういう庶民感覚が政治に反映されれば政治はもっとよくなる、みたいなことを言ってた時期があるようですが、東さんの話は論外だと思ってます。これと同じにだけはなってほしくないです……。
新しい民主主義システムでも、選挙や議会は従来どおり行う。ただしこのシステムではそれにつけくわえて、議会をニコニコ動画のように、一般の人からコメントをつけられるかたちで公開する。これが「大衆の不定形な欲望を対象とする巨大な可視化装置」だ。東によると、議員らは大衆のコメントによる圧迫を感じながら意思決定をすることになる。ようするに、東はニコニコ動画のコメントを無意識の垂れ流しと考えているらしい。よって、ニコニコ風コメントで議員に圧力をかければ、無意識を政治に反映したことになる、といいたいようだ。
私は「みんな」の意見は信用してもよいと思いますが、「庶民」という自意識を持っている集合の感覚はあまり信用してません。庶民という響きはどうしても「責任者ではない」という野次馬的なニュアンスをかんじるからです。こういうみんなで何かやろうという時に、名前は意識付けとして大事です。
政治についてするとき、コミケや音楽フェスのイベントのように、ように何らかの形で「ルールやマナーに同意した参加者」という意識を持ってほしい。「庶民意識」に変わる何か他の言葉があるといいなと思います。