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「社会人とはなにか」とを考えることと、ハンターハンター1巻の問いかけ

「あらゆる残酷な空想に耐えておけ現実は突然無慈悲になるものだからな。いつか来る、別れ道に備えて」


「社会人とは」についてもう一つ。

http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2012/03/4-92f8.html
読みました。素晴らしいです。 
みなさんにも是非全文読んでほしいのですが、特に印象的だった4だけピックアップしておきます。



普段は、社会人であることを意識することは必要ない、求められない

社会人としてすることって、それほど多くはないんですね、となりそうです。そうです。そんなにありません。人生を楽しもうとか、自分で物事を考えようとか、まあ、そんなのは個人の自由の範囲の問題で、社会人として問われていることではありません。 むずかしいのは、社会人として強く問われる事態があるときです

ほとんどのひとは、日常的に使われる「社会人」は、けいろーさん(id:ornith)が言うように
「社会」「公共」に対して直接的・積極的な意味を持っていない場合が多いと思います。
そもそも、日頃から「社会」や「公共」について考えることはほとんどない。そして、それで構わない。

仕事を通して間接的に「社会」やら「公共善」に貢献する。
あるいは、悪(と自分が思うもの)を控えることによって、消極的に「社会」や「公共」の維持に務めるという感じでしょうか。

個人を基本とするのは近現代からの考え方なのだそうですが、
そういった社会に生まれたことを感謝しつつ、それが失われないように
日々善くいきていれば、普段は問題ない、とかんがえるべきかな、と。


ただし「社会人」として困難な状況に対処することを求められることはある。自分がやっていなくても見知らぬ誰かがそれをやっている

・「公」が暴走しかかったときに、社会人はそれを阻止しなければなりません。その孤独な戦いを河野さんは社会人として強いられました。そういう事件がなければ、それほど社会から注目されることもない人生だったのではないかと思います。社会人であるということは、そういう理不尽な状況に追い込まれても、社会人として生きなければならないことがあるのです。

・「公」にとって正しいとされていることが、実際には「公」にとって明確に間違いであると確信できたとき、社会人はどうすべきでしょうか。必死に「公」に向かって声を上げ、説得をしなければなりません。いや、それを義務と思うべきかどうかもむずかしいところです。でも、こうした状況が、語り尽くされた「正義」を超えて社会人と「公」の関係の本質をあぶり出します。あなたがそうした場所に立たされることがあるかもしれません。

・自分たちが「公」と信じるものを守るために命がけの戦いをしたわけです。こうしたことをより延長して考えると、公務で命を失う人について、社会人がどう考えなければならないかが問われます。

大抵の人にとって、こういう状況は思いがけずやってくるものなのだと思う。
最初から望んでこういった深刻な問題を直視し、立ち向かいたいと思う人もいるだろうけれど、そういう人たちばかりじゃないだろう。
しかも、この状況に立ち向かうことは義務ではないし、諦めたり逃げたりできるものなら、逃げ出したいようなことなのだと思う。

こういう状況に、自分が上記のヒトのように立ち向かうことが出来るだろうか。
「社会人」として胸を張れるような行為が出来るのか、それはなってみないと分からない。
それまでに自分がどういう人生を生きて、どういう信念を育ててきたかによるんだろうな。

(ちなみに、私はここで「公」のために戦うことが絶対的に正しいとは思わない。
 「私」を選んでも一向にかまわないと思う。正解なんてないのだから、その人がそれを正解だと思えるかどうか次第だろう)


だから、時々、「社会人」として直接的な務めを果たす状況を想像する

社会人のみなさんの大半は、こうした難問に遭遇しないで一生が終わります。そして、そうですね、九割がたがは社会的に無名で終わるでしょう。普通の社会人というのはそういうものです。でも、そうした社会人の誰かは、「えええ?私がぁ?」と難問を突きつけられる状況になります。たまに想像はしてみましょう。そうした人を支援しましょう。そういう無名の社会人が困難な状況のなかで「公」を支えてくれるおかげで、私たちは生きていけるわけです。みなさんの、誰かもそうなります

備えとか、行動のシミュレーションというよりは、自分自身をしるためにこういう時どうするか考えておきたい。

こういう困難状況になった時どう行動するかを考えることは、
自分の信念や、価値観、軸になっているもの、行動の理由とか色んな物を考えるきっかけになるかもしんない。

普段「個人としての自分」しか考えることがない、考える機会がない。でもほんとにそれでいいのかな、って時々考えてみたい。
ちなみに医学部の小論文の問題にはこの手の「極限状況でどう行動しますか?」を書かせる問題が結構出ます。
やはり医者というのは「公としての自分」を自覚することが求められる仕事なのでしょうね。

みなさんの学校や会社では、普段「公としての自分」を想像する機会はありますか?



これから、見知らぬ「社会人」に感謝しながら生活してみようかな

だから、いつも思うのです、ありがとう

私は幼稚園の時はカトリックの教会が運営しているところだったので、
ご飯の時は必ず神に感謝するお祈りをするようしつけられた。
今はすっかりやらなくなっちゃったけれど、
意味がわからないながら、感謝ごっこを毎日楽しんでたあの時のことを今頃思い出す。

親とか社会とか、場合によっては神様さえも完全ではないかもしれない。
社会も会社も、理不尽だとか間違ってると思うことは多くて、まだまだ不完全だと思うところだらけだ。
決して今の生活に不満がないとか、この上なく充実してるとか、つらくないとは言えない。
それでも、今の社会を支えてくれているひとたちがいるから、
今の自分が有るのだということを時々思い出して、感謝する気持ちがもてれば、
それが正しいかどうかはともかく、そのほうが幸せな気分になれるような気はする。