頭の上にミカンをのせる

「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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社畜・客畜・人脈畜・技術畜・金畜・・・etcetc

メモ


要するに、自分が何が得意で何が苦手かが人によって違うだけなんだろうな、と。

今までは会社しか選択肢がなかったから、社畜という言葉もそれなりに意味があったのだろうけれど。

会社で生きていくだけが唯一の道でなくなっていく時代になるとそれは単なるタイプの違いってことになっていくかもしれないですね。


もしそうなってくるなら、何か一つの生き方に「畜」って言葉をつけて貶めようとする人は、いつまでも「会社だけが生きる道」教の信仰者ってことになるし、ただの時代遅れだったり、ただのヘイトスピーチって扱いになるかもしれない。

逆に「評価経済」だけを持ち上げる人およびそれを殊更に貶めようとする人たちは血液型占いを信じてる子どもたちより視野が狭いってことになるかもしれない。


今「フェミニスト」の人をバカにするような意見を言ってる人が多いけれど、当時は今よりずっと重要な意義を持ってたと思うんだよな。状況が変わって、LGBTなどのような問題が出てきていろいろ性に関する問題が多様化しているのに、ずっと「フェミニズム」だけを錦の旗のように振りかざしてラディカルな運動をしていたら周りの人はちょっと引いてしまう、ということじゃないかな、と。もちろん今でも十分意義はあると思うんだけどもな。

同様に、「非モテ」を叫んだり「社畜」を叫んだりする人たちが、今の「フェミニスト」みたいな位置になっていくといいんだけどね。
・他に選択肢がない状況でなくなること。
・正しい選択肢があってそこから除外されたような存在としてみなされなくなる」
・多様な選択肢の中の一つ」として認識され、優劣を



というわけで、「得手不得手」に合わせて人が生き方を選べるようになるといいですよね。

夢見がちな無職の抜け作が見落としがちな事が2つ。
1.上司より客の方が断然横暴で容赦無い。
2.複数の仕事を持つとスケジュールのバッティングが起こり調整が必要だが複数の職場間のそれは社内のそれより難しい。

「夢見がちな無職の抜け作」かどうかはおいといて、
社畜といわれようがなんといわれようが、評価経済社会より会社中心で生きるほうが楽な人は多いよね。



評価経済推奨してる人たちは、まぁ人気者になってアドセンスやらアフィで食ったり講演したり、というイメージか。
ということは客ニアリイコール信者を自分で作って、それに食わせてもらうことが得意なんだと思う。
広義での「接客」が得意で、その分会社の中で生きるのは苦手ってそんな感じだろうか。


ネットで食っていってる、たとえばノマドの人や2ちゃんまとめ、バイラルマーケみたいな人たちは
バズのためにインフルエンサー重視とかグロウスハックという難しい言葉が大好きだけれど
「人脈」とか「同業者とのつながり・交換」で食っていく人のがメインになってる気がする。
好きな人とか利害関係者との地道な関係構築とかその維持が得意なんだろうと思う。
その代わり、「単なる客」とか、まして偉そうにしてる上司とかとは相性悪い、って感じかな。

技術畜は「テクノロジストの時代」の話で、金畜は金融立国イギリスのモデルケース、みたいな感じかな。エトセトラエトセトラ。




余談 ドラッカーとか社畜とか

ところで、かつてドラッカーは「人が得手不得手で生き方を選べる」ことを可能にするのが企業の根源的な存在意義だと語ったわけです。そうやって企業を中心とした社会によって「人が(間接的ながらも)主体的に生き方を選び、いきいきと生きる」ことが、全体主義を防ぐ唯一の方法だと。企業をそういう目的のもとに運営するための手法として「マネジメント」を考えたわけです。

ドラッカーにとっては企業における利益も効率も組織も、全ては「そこで働く人が生き生きと生きるため」だったわけです。
この根本命題が抜けてるのは、ドラッカーにとっては企業と呼ぶに値しないものだったでしょう。
ドラッカーの言う企業」は実現が難しい。そして、だからこそ「マネジメント」という体系的な知識を経営者やリーダーが学び、身に付けることが必要であるとしたわけです。
ドラッカーはこういう考えだったからこそ、行き過ぎた利益重視・人間無視の方向性が破綻した「リーマン・ショック」の反動期である2008年にドラッカーブームが起きたんだと思ったりします。



何が言いたいかというと、もともと会社というのは、今上で挙げたような「人々が多様性を可能にする唯一の環境」として期待されてたわけです。でも実際は、その理想の恩恵を受けられたのは全ての人ではなくて「男か女かというと男」、「大企業のみ」「正社員のみ」「大卒のみ」みたいな縛りが出てきちゃった。(ドラッカーCSRの重要性や、「企業社会」の隙間を埋めるべく非営利組織の活躍にも期待したりしてます)

結果として、そこから除外される人たちが多く出てきた。高らかに人権をうたいあげたアメリカ合衆国憲法において「黒人」は人としてみなされずその人権の環から除外されたように。さらに「企業の恩恵」を受ける側の人たちも、組織によって理不尽に扱われたり、決して幸せじゃないことがある。

かつて企業は「そこで働く人が生き生きと生きるため」にあったはずなのに、そうなってない。むしろ誰も幸せになっていないんじゃないか?そんな、企業の内外からの疑問の声が一致した時に「社畜」という言葉が爆発的に広まったんかな―と。