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「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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カタルシスについてのメモ

カタルシスという言葉は、「心の中に溜まっていた澱(おり)のような感情が解放され、気持ちが浄化されること」を意味します。もともとは、アリストテレスが『詩学』に書き残した悲劇論から、「悲劇が観客の心に怖れと憐れみを呼び起こし感情を浄化する効果」をさす演劇学用語です。転じて、精神医療においては「抑圧されていた心理を意識化させ、鬱積(うっせき)した感情を除去することで症状を改善しようとする精神療法」をさします。さらに、一般化して、「心の中にあるわだかまりが何かのきっかけで一気に解消すること」

http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/topic/10minnw/036katharsis.html

カタルシスは、あくまで「抑圧から自己を解き放ち、鬱積した感情を除去すること」が大事っぽい。

よくカタルシス体験っていうと、遊園地のジェットコースターで叫んだり、サンドバッグを殴ったり、カラオケで絶叫したり、恋愛映画を見て号泣したりとか、そういう形で表現されることが多いけれど、大事なのは「ストレスを受けてそれを自分にためこみ、緊張してしまっている」状態から自分を解放することが大事なんだそうです。

・ありのままの自分に「向き合う」ことによって、少なくとも自分にだけは自分を偽ってない状態に持って行くこと。
・ストレスの元そのものはどうしようもないけれど、ストレスの受け止め方(=ストレイン)を変えること。

みたいな話なんだそうな。


このあたりを意識してやらないと、上記のような行為はいくらやっても、疲労感などからいったんストレスを感じなくなくなった錯覚をえることはできたとしても、すぐにストレスが復活して何度もそれにのめり込むことになるみたい。

もし抑圧された感情がないなら、あなたは身ぶりをすることはできても、不必要にエネルギーを浪費してしまい、あとで疲れを感じるだろう。抑圧された感情はなにもなかった。なにも上がってこないのに、不必要に跳びはね、叫んでいた――あなたは疲れを感じる。 もしカタルシスが本当なら、あなたはそのあとで、元気になったと感じるだろう。もしカタルシスが見せかけなら、疲れを感じるだろう。

なんか変だよ「カタルシス」に関する通説

そもそもカタルシスは上記のようにストレス「浄化」なのだけど、
なぜか日本だと「ストレス発散」という言葉になって、とにかく体を動かせ、わめきちらせみたいなイメージになってるし
あるいは「解毒」を意味する「デトックス」って言葉になって、外的に取り除け、みたいな話になってる気がする。

それはなにかずれてる気がする。

私もよく違和感を感じつつもそういうもんかなーと思ってたけどやっぱり違うっぽい。


ネガティブな感情はただ発散させるだけではストレス解消につながらない。

簡単な話、何かに対して嫌悪感を持ったまま、その嫌悪感をいくらネット上に吐き出しても、ちっともすっきりしないし、むしろ余計ストレスを感じるようです。

ジェットコースターが怖くて嫌いな人はジェットコースターに乗っているとき不快感を感じています。しかし、好きな人はカタルシスを感じています。イライラしているときは不快感を感じています。しかし、怒鳴っているときはカタルシスを感じています。悲しみに耐えているときは不快感を感じています。しかし、泣いているときはカタルシスを感じています。このように、私たちは感情の刺激を体に感じたときに、そのことを嫌だと思って我慢すると強い不快感を感じ、受け入れる気持ちを持って積極的に感じるとカタルシスを感じます。そのことは、実際に自分の体で試してみると、よく分かります。ネガティブな感情に襲われているとき、我慢することを止めて、「受け入れる」という気持ちになって、そのネガティブな感情を感じると、その刺激は以前よりも対処可能なものになります。

結局、どこかで自分が認識を変えなければいけない。

考える余裕や落ち着いて対処するがなくてただ「我慢していた」だけの状態から自分でいかにそれと向き合うかを決め、場合によっては捨てたり、部分的に受け入れたりしてコントロールできるようにしなければいけない。

そうしないと、どこまでも、そのものに対する嫌悪感だけを心のなかにルサンチマン(反復)することになる。



一番ダメなのは、一度カタルシスを感じられた行為に取り憑かれてしまうこと。

振りをし続けてはならない。なぜなら、カタルシスはゴールではないからだ――それは単なる手段だ。ある日、落ちなければならない。それを運びつづけるべきではない。ただのボート、渡し舟のようなものなのだ――あなたは流れを渡り、そしたらそれについては忘れる。頭に載せて運んだりはしない。
覚えておくがいい、カタルシスに取りつかれることもあり得ると。あなたはやり続けることができる。するとそのとき、それは型に、パターンになる。パターンが作られるべきではない。どういう時に、カタルシスを落とすことができるのか? それは、それ自体で落ちる。あなたはただ、注意深いまま、見守っている。そしてそれが落ちるのを望んだら、しがみついてはならない――落ちるにまかせなさい。

たとえばセッ○スをしたり、ネットで暴言を吐いたりした時、最初はそれが快感だったり、心の抑圧を解き放つきっかけになって自分を楽にしてくれたとする。ところが、ここで勘違いをしてしまい、本来の目的である「心の抑圧から自分を解放する」を忘れて、その行為そのものが目的になってしまうことは大いに有り得る。私もいろんな心あたりがある。
かつてカタルシスを感じられたからといって、自分の心に向き合うというプロセスを飛ばして、その「型」だけを繰り返してもあまり効果はない。しかし、自分の中の思い込みや錯覚からしばらくは効果があるような気がして繰り返す。だんだん効果が感じられなくなってくると、その行為そのものがストレスになってくる。






おまけ

自分自身に煽り耐性がないヒトほど他人に対しては平気で無神経・挑発的な言動を繰り返す。

だれだって自分は不愉快なことを言われたくない。
それでいて、自分がムカついた時はなにか一言いってやらずにはおれない。
自分は相手を不愉快なことを言っても許されたいが、自分が言われるのは許さない。
そういうことができれば、まぁ表面的にはストレス溜まらないかもしれないですよね。

でも、そうやって「ストレスそのものがない」ことを望んで、
「自分の内にあるストレスはぶちまければ発散できる」というようなモデルで考えていて
実際に行動しているヒトを見て、その人達が幸せそうに見えるかというと、見えないですよね。



自由に発言して、不愉快なことには耳を塞いだり、脳内解釈をねじ曲げることで
一見快適に生きてるように見えるヒトって結構いるけれど
その結果として、ストレスに対する対処能力がすごい低いですよね。(回避性人格障害

そういうことばっかりやってると、
ストレスを徹底的に避けて生きていける場ならいいけど、
避けられないストレスがきたら多分一発で崩れる。

現実において、すべてのストレスを避けたり見て見ぬふりをすることはできない以上、
そういう生き方を貫くことはむりなわけで。
できたとしてもそれはほんと一時期に限定されるものなわけで。


そういう生き方するよりは、ストレスに対して「持続可能な」対処能力を高めていきたいと思う。