ベイマックスを見て。
とにかくこの作品はとてもキレイである。「人間的に好ましい」。確かにそう思った。
ただし、それを達成するためにもはや現実の人間だけでは不可能なんだろうか、とも思わされた。
ベイマックスの「人間的にこのましい世界」は「非現実的な天才」と「非人間的な存在」によって演じられている。
ベイマックスの場合、ベイマックス自身はまだ「人間の意思の媒介者」にとどまっている。「人間が作ったプログラム通り」に動いているにすぎない。ベイマックスは最後までその一線を越えなかった。そこに人間性は宿らなかった。つまり、この作品は、ベイマックスという存在の補助は得ているが、まだ人間の物語だ。人間の物語というには、あまりにも登場人物が人間離れしているけれども、それでも人間の物語だ。
しかし、今後人間的に美しいものを語ろうとするなら、そういった物語から、人間がどんどん減ってきて、ついに失われてしまうこともありうるのだろうか、と思った。ヒューマニズムは、機械の間にだけ残る、残滓のようなものになってしまったりするのだろうか。「人間的なテーマ」を表現しようとすると、むしろ人間こそが邪魔ということになってしまわないだろうか。
(ロボット工学が発展した未来において、ロボットが人間がつくった本を愛しヒューマニズムを感じさせる行動を取るのに対して、それを使役する人間はひたすら非人間的な振る舞いをする存在として描かれるという展開がつらい作品)
それにしても、「人工知能が作ったらこんな感じかも」とまで言い切ってるこの記事すごい。そこまでは考えなかった。
『ベイマックス』感想 人工知能が映画作ったらこんな感じかも - (チェコ好き)の日記
ただ、そんなことはみなさんとうに承知していることかもしれませんね。あくまで私がディズニーとかピクサーの作品は全然見たこと無いだけであって、ピクサー側の作品ラインナップを振り返ってみると既に非人間的な存在が主体の作品多いですね。
ピクサー長編アニメーション映画一覧 - NAVER まとめ
ディズニー&ピクサー映画作品一覧(未公開作品&実写有り) - NAVER まとめ
ベイマックスが始まる前の物語でも、「非人間的な存在」が人間的な美しい関係をとりもち、支えています。もともと、この「看護用ロボ」的な発想を基軸としているのかもしれません。「ベイマックス」は、ベイマックスというロボットの存在を軸にしながらも、人間の物語として描いている。むしろ、ディズニーのラインアップの中では、モンスターだけでなくて、人間が物語を取り戻そうとしているという挑戦が行われてるのかもしれません。
いや、他の作品見てから語るべきなんだろうけれど。
そもそも、よく考えたら、すでにSFってそういう設定の作品たくさんあるはずですよね。
(SFはよく知らないので、思い当たるのがこのあたりしかない……)
ただまぁ、この作品をポリティカル・コレクトネス的に素晴らしいーて言ってる人の感覚はちょっと理解できません。せめて、そういう話は人間メインの作品で言って欲しい。人間が登場しない作品でポリティカル・コレクトネス追求しても、あんまり意味ないと思うんだけど。ポリティカル・コレクトネスのために人間がいなくなったり、超高校級の天才のような設定がないとダメ、ってのはちょっと困る。それって要するに現在の人類では無理ってことの裏返しなような気がしてツライ。
と、まぁ。とにかく、ディズニー(ピクサー)作品を映画で見るのは初めてなので、いろいろ戸惑ってます。
余談。
大相撲では「日本的なるもの」「相撲らしさ」を守りたいという要望と、それを「日本人」が担わなくなり、その結果ますます概念ばかりがエスカレートしていき、ついに概念が現場で頑張っている人を食いちぎり始めているのではないか、みたいな話。実際に日本人で頑張ってる人がいる以上、この論調は極端だと思うけれど、言いたいことはわかる。
とある「外国人労働者」の悲劇:日経ビジネスオンライン
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相撲には、あるわかりにくさがつきまとっている。理屈で割り切れないというよりも、理屈みたいな乱雑なもので割り切ってはいけないと思わせる何かが、相撲には内在している。理由はわからないが、なくしてはいけないと思える何か。うまく説明できないけれども、日本人として守らねばならないと感じる何か。
(中略)
「すもうとり」という仕事を、われわれは、もう自分たちでやろうとは思っていない。平和と繁栄に慣れたわたくしども21世紀の日本人は、もはやふんどしを締めることができない。
(中略)
で、われわれは、自分たちがしなくなった相撲という仕事を、アウトソーシングしている。もう少し別の言い方をするなら、われわれは、自分たちの国技を外国人の派遣労働者に丸投げしているのだ。