「7SEEDS 27巻」読みました。
「あんたらは特殊な育てられ方をしたって聞いたけど。ようしらんけどな、人を好きになったりしたらあかんかったのか。」
「好きとか嫌いで判断すると間違うでしょ?誰が好きとか言ってるバカな人たちもいたけど、優秀かどうか、必要かどうかよ。そもそもそういうカテゴリーはなかったし」
「カテゴリー?」
「この人は味方、この人は敵、この人は足を引っ張る人、この人とは協力できる。この人は役に立つ。この人は話すだけ無駄。そういう分け方よ。だから鷹さんは、協力できる人としてそばにおいときたいの」
「頭悪い感じやなぁ」
「なんですって?」
「どんな育ちでもええけどな。問題起こさんといてくれな。しょうもないことでガタガタもめるの、わしゃいややねん。あんたが新巻さんにほれてんのは他の人にはまるわかりや。はよ自覚して、気持ちコントロールしてくれや。カテゴリーは増やしていき。"好きな人"”尊敬する人”男でも女でも多少は賢なるで
「…よく、わからないわ……」
この会話で「よくわからない」と言っている「あゆ」さんは「フルメタル・パニック」の相良軍曹の女性バージョンみたいなものであある。
サバイバル能力や知識など基本スペックは非情に高い。知能や身体能力もとても高い。だからサバイバルに関する問題については非情に頼りになるのだが、そういったものが求められない日常のコミュニケーションにおいては完全にコミュ障になってしまう。
他人をゴキブリと呼んでは「なんで?褒めてるのよ?生命力が高いって」と言ったり、他者からしたらどう考えても見下したり挑発しているような発言になってしまう。
実用以外のものに全く価値をみとめないため、こういうズレた発言をしたりする。
これはサバイバルに特化した訓練を受け続け、それ以外の余計なことを考える余裕が一切ないという「虐待」という言葉でも生ぬるい状況でずっと育っていたからなのだが、とにかく決まった経路を通ってきたもの以外、何も理解できない。 それ以外のものはすべて「価値なし」「必要なし」として切り捨ててしまう。
それでいて、本人は不足を感じていない。自分が優秀で、つまらないことにかかずらわっている他の人間が愚かであると思って自己完結している。
さて、そんな彼女が、新巻という男性にだけは妙に執着心を示す。しかし、あゆには自分のことなのに、それがどうしてかわからない。自分が持つ「人を理解するためのカテゴリー」の中では次のような回答しか出てこない。
好き…そういう話じゃないけど。鷹さんはいつか私が子供を生むときのパートナー候補として確保しておきたいの。好きとか嫌いとかそういうの、よくわからないわ
こういうのを見て、角っちは「頭悪いなぁ」という。みんなからみたら明らかなのに、本人だけが気づいてない。そしてそれは「人についてのカテゴリわけがあまりに少ないことが原因である」と指摘する。
皆さんはどのくらい人に対する「カテゴリ」を持っていますか?
これは面白いな、と。
私もお世辞にも人付き合いが得意とは言えず、自分の「カテゴリ分け」を見てもあゆさんと対して違いがないように思う。
だから、多分ものすごく大雑把にしか他人を捉えることができてない。そして、すごく平面的に切り分けちゃってる気がする。
でも、細かく多面的なカテゴリ分けをもっていて、それぞれを関連付けとかしたらすごく人が立体的に見えてくるのかもしれない。そういうことができると「良し悪し」なんて考えなくなるのかもしれない。どんなことでも「特徴」や「個性」を束ねたものとして理解できるようになったりするかもしれない。
たとえば
「○○が好きな人」「△△が面白い人」「☓☓のセンスが良い人」みたいなレベルの粒度で人に50も100も特徴を見出すことができたら、もっと他人に興味を持つことができるんだろうか。それとも、そのくらい他人に興味を持ってるからこそそういう粒度で他人を把握できるのだろうか。
私は自分の特徴すら自分でよく把握できてない。「大げさでわかりやすい人」「明らかに特徴的なキャラクター」くらいしか理解できてないのかもしれない。だから、そういう人ばかり気になってしまうのかもしれない。
だけど、見方を変えることで、もっと「普通に見える人」の魅力がわかってきたら、世の中もっと面白くなるのかな。