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「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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ユリ熊嵐を見る前に「ペシミストの勇気」

ユリ熊嵐」は一話しか見てません。明日からちびちび見るつもりです。

故に以下の内容はすべて妄想であり戯言です。見た後に全然ずれたことを言っていたということになりそうですが、自分が「ユリ熊嵐」に求めるものはこのあたりだ、ということで先に書いておきます。


ペシミストの勇気について

透明な嵐 =「平均化」の圧力、「加害と被害の同在」かな

身心の凍結状態

ほぼ二回の淘汰の時期

徹底して人間性を喪失して行く過程

人間としては完全に「均らされた」状態

ここでは「生きる」という意志は、「他人よりもながく生きのこる」という発想しかとらない

なまはんかなペシシミズムは人間を崩壊させるだけである。ここでは誰でも、一日だけの希望に頼り、目をつぶってオプティミストになるほかない。収容所に特有の陰惨なユーモアは、このようオプティミズムから生れる。

徹底した人間不信のなかへとじこめられて来た

私たちの言動は、シニカルで粗暴な点でおそろしく似かよっていた

おなじような条件で淘汰を切りぬけて来た私たち

ある時期には肉体的な条件さえもが、おどろくほど似かよっていた

すこしでも弱い者を死に近い位置へ押しやるのである。ここでは加害者と被害者の位置が、みじかい時間のあいだにすさまじく入り乱れる

加害と被害の同在という現実

加害と被害が対置される場では、被害者は<集団としての存在>でしかない。被害においてついに自立することのないものの連帯。連帯において被害を平均化しようとする衝動。被害の名における加害的発想。集団であるゆえに、被害者は潜在的に攻撃的であり、加害的であるだろう。しかし加害の側へ押しやられる者は、加害において単独となる危機にたえまなくさらされているのである。

もし「非人間化のプロセス」「人を平均化する圧力」を「透明な嵐」と呼ぶのであれば、そういうものはよく見かける。

ネットで会社や社会について風刺を述べたりシニカルな描写をするツイートは大量にRTされるのをよく見る。

自分を何かの被害者という立場から語るツイートも人気のようだ。

私はそういうの見るとなんだかとても気持ち悪い。

そういう人間が一番「平均的で均された、均されたままの、人間であることを拒否しているなにか」に見える。

本人はそういう言動をしたり、それを好む自分を特別と思っているのかもしれない。

透明な嵐にさらされてなお個を守ったとでも思っているのだろうか。

違うと思う。君らは透明な嵐に負けて、飲み込まれて、均されちゃった人間だろ。そこを今更否定したらダメだだろと。

別に過去に均されて、透明な存在になっちゃっていたとしても、それは全然恥じることじゃない。

生き残って、そこから逃げ延びられたなら、そこから恢復期を乗り越えて人間に戻ることはできる。

あるいはすでに乗り越えているのかもしれない。それならそれは、充分すごいことなんだ。


逆に、恢復期の痛みを逃れるために

「そもそも自分は均されてなんていなかった」「透明な嵐に負けてなどいなかった」なんて言ってたら

その人間こそが、いつまでも「平均化の圧力」に負け続けていることになる。

一度負けたという事実を認めなければ、そこから先には進めなくなる。



緩慢な恢復期の苦しみ

アンバランスな緊張状態

人間の結びつきが恢復して行く過程もかなり特殊で、それも長い相互不信の期間を必要とした

ながいあいだ自己の内部へ抑圧して来た強制労働への憎悪がかろうじて芽を吹き出して行く

私たちが単独な存在として自我を取りもどし、あらためて周囲の人間を見なおすためには、なおながい忍耐の期間が必要だった

人間として失たったものは私たちには大きすぎた。

人間としての痛みと屈辱を恢復して行く過程

精神は荒廃したままであり、およそ理由のない猜疑心と、隣人にたいする悪意に私たちは悩まされつづけた

もっとも、恢復期は、ある意味それに耐えていた時期よりはるかにしんどい可能性がある。

今まで一方的に被害者であったはずの自分が、加害者としての自分を見出したり、
被害者として連帯していたはずの仲間が崩壊して、仲間との信頼関係が崩壊していく。

己を支えてきたストーリーが崩壊して、新しいストーリーをまた紡ぎだすのは相当エネルギーがいるだろう。

これに耐えきれずに自殺したり、その後社会に復帰できなかった人も多かったらしい。




ペシミストの勇気 = 加害被害の同在する「集団」そのものから自分の意志で抜け出し単独者となること

といっても、「それに負けなかった人間」というのはどういう人間かがわからなければ自分がそういうものだと勘違いしてしまうかもしれない。私は「ペシミストの勇気」という文章で「透明な嵐」と戦い続けることの覚悟というものを思い知らされたから、私はそういう人間ではなかったと認めることが出来るのだと思う。

排除されるのではなく、自らその集団を立ち去る。彼らを告発するのではなくただ単独者として外側に立ち続ける。

最初からまったく孤絶したかたちで発想し、行動して来た

他の日本人にとって、しばしば理解しがたい、異様な存在であった

およそ希望に類する言葉を、鹿野は一切語らなかった

終始明確なペシミストとして行動した、ほとんど例外的な存在

鹿野は、どんなばあいにも進んで外側の列にならんだ

ほとんど不毛の行為である

周囲の囚人に奇異の感を与えた

加害と被害という集団的発想からはっきりと自己を隔絶することによって、ペシミストとしての明晰さと精神的自立を獲得した

鹿野だけは一年前とほとんど変らず、贖罪を終った人のようにおちついて、静かであった

指名も待たずに、一番条件の悪い苦痛な持場にそのままっいてしまう

すでに他界へ足を踏み入れているような彼の沈黙にたいしては、すべて無力であった

もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない

そのときの彼の表清に、おそらく敵意や怒りの色はなかったのであろう。むしろこのような撞着した立場に立つことへの深い悲しみだけがあった

彼はついに<告発>の言葉を語らなかった。彼の一切の思考と行動の根源には、苛烈で圧倒的な沈黙があった。一切の告発を峻拒したままの姿勢で立ちつづける

ついに一人の加害者が、加害者の位置から進んで脱落する。加害と被害の流動のなかで、確固たる加害者を自己に発見して衝撃を受け、ただ一人集団を立去って行く

この勇気が、不特定多数の何を救うか。私は、何も救わないと考える。彼の勇気が救うのは、ただ彼一人の<位置>の明確さであり、この明確さだけが一切の自立への保証であり、およそペシミズムの一切の内容なのである。。単独者が、単独者としての自己の位置を救う以上の祝福を、私は考えることができない。

ネットにおけるこじらせた人が救われる道は、誰かに承認されることとは限らない。
このような形で、自分で自分だけを救うという道も有るのかもしれない。





でもコレ以外に「透明な嵐」=「平均化」に立ち向かうすべがあるのかもしれない。
私はこれから「ユリ熊嵐」を観るに当たり、そういうあたりを期待したいと思います。