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「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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理想は高く持つべきだけどそこに到る過程ではあんまり格好付けすぎないほうがいい

ワインバーグの法則 - この夜明けまでに

クリスマスプレゼントに金槌をもらった子どもは、何でも叩きたがる。

某記事への感想です。

とても素晴らしかったです。単に意識が高いだけのひとじゃあこうはいかない。意識が高いだけの人はアウトプットそのものにはこだわるけれどその過程にはこだわらない。だからすぐにパクりに走るし、それが効率的であり合理的だと思ってしまう。陵辱はあるけど愛も哀しみも感じられない。

そういうものと比べると、この記事は一線を画している。この人は意識が高いのではなくて理想や目標が高いのだと感じる。その違いは大きい。



私は悪文だとか論理破綻記事と呼ばれる類の記事が、そういう記事こそが大好きです

その人の身の丈にあった、丁寧に説明してなお余裕を感じさせる記事。そういうのは、すごく役に立つし9割はそういう記事であってほしいけれどそういう記事ばっかりじゃつまらないじゃないですかー。

背伸びして一生懸命書いたけどやっぱり無理でした、でもなんとか書ききりましたーって感じの記事はもっと評価されるべきです。

(勘違いしてはいけないのは、「わからないことを自覚しつつ、わからないなりに必死に食いついて書ける範囲で書こうとする必死さが伝わる記事」は評価されるべきであるけれど、「知らないくせに知ったかぶってって適当に書いてる誠意に欠けたクソ記事」を量産してるバカは死ぬべきだということです)



この記事の作者は、一生懸命自分で考えている。ただ、自分が扱おうとしている話が、自分の力量に余ってしまっただけ。その結果かなりおかしなことを書いている。それでも、作者はつぎはぎでもなんでも一生懸命自分の記事として最後まで書ききって提出しきった。そのバイタリティが素晴らしい。これは今の私に一番足りないものだと思う。

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こういった、バイタリティ依存のゴリ押しで作り出されるアウトプットは、たいていいびつな形をしている。けれどそれで構わない。オピニオン記事においては、アウトプットされたものの完成度はそれほどプライオリティをもたない。あくまでそのアウトプットを出すまでに作者が経過した思考の経路が見れることが重要です。だからこそコンビニ店長の記事は価値があった。


もっといえば、論理的思考が出来なくたって構わない。たとえ論理的には破綻していようとも、その苦悩や自意識の迷走ぶりそういったあがきの部分が垣間見れるなら、むしろそうしたエントリは読み物として価値がある。 目指したいゴールがあって、そのゴールに論理ではたどりつけないことを悟りつつ、それでも無理やりそのゴールを目指す展開を感じさせる悪文だらけの記事なんて、論理的にすっきりよめる記事より面白いじゃん。 



そんなわけで、偉大なるウォッチャーおおつね氏の言葉を借りるならこの記事はまさしくそういう「本気」の記事といえるでしょう。


私は好きですよ。










◆以下は蛇足です。上で述べたような若い人のバイタリティの輝きに敬意を評しつつもおっさんっぽい愚痴を述べてみます。……風○でさんざん楽しんだ後に賢者モードになって説教するおっさんって最低だよね。



さて、理想が高いことは大変結構なことだと思います。その理想の高さを自分だけで上手に消化して受け止めきることができず、その受け止めきれなかった文を他人に背負わせちゃう感じが素敵。その結果自らが否定している「俯瞰高度の高い語り」や、「他者視点という作品外の要素を元にした語り」に頼らざるを得ない矛盾への違和感。引用を多用し、それを咀嚼しきれていないためか自己の言葉が弱くなっていることに対するもどかしさ。それをなんとか振り切ろうとついつい強気になる語調と、それに相反するように「これは仮説にすぎない」「これは私の観測範囲によるものにすぎない」というエクスキュースの連発。

これが己の意見だと胸を張りたい気持ちと、これでいいのだろうかという不安のないまぜになった葛藤が知らず知らずにじみ出ている。 そんな記事が心の底から愛おしい。



あのね。本当に自己完結できるなら、自分だけで物語を豊かに味わい尽くせる人は、方法論なんかどうでもいいはずなんだよね。少なくとも他人がどう楽しんでようが関係ないはず。文句をいうひつようなんて一切無いはずなんですよ。自分がそれで満たされてるのなら。
でも、他人の作品への接し方が気になって仕方ないんですよね。そこを否定しつつでないとなかなか自分だけの足で立つことが出来ない、と。そうやって自分に迷いを抱えつつ、それでも善きものを目指したいという姿勢、それはとても眩しいと思います。



ただ、ゴールがそうだからと言って、まだそういう領域に達してないのに、そういう過程で他者を参照することを否定するのって自分の道を塞ぎそうだな、とも思います。



上の人を見上げて自分もそうなりたいと理想を抱きつつ、自分はまだその域にないって自覚が必要だと思う。この両者の間を上手に往復できてない感じが、そのままいびつな文章となって現れてる印象を受けます。




ここからは一部の人にしか伝わらない話ですが。
DDR」でいえば、そりゃ理想は

・バーなしで
・「哲学」(レベル19)を
・美しく

踊れるのが理想でしょう。それを理想にすることは構わない。だけれども、その過程においては

・まず補助バー使ってでも、
・見苦しくても
・まずその作品に食いついてクリアできるレベルに到達しなきゃ

その先の話やっても意味ないと思うんですよね。


にも関わらず、例えばまだ中級者レベルの曲が踊れるようになったばかりの人があるいは後ろで他の人が踊っているのを見ているだけの人が、なんかもう上級者になったかのつもりで他者のプレイを上から評価とかしてたらどう思うか、と。

そういう奴は単純に言っていけすかない野郎とか勘違い野郎ってことになっちゃうと思うし、理想へ到る「過程」である部分を否定してしまったら、そこから上のレベル進みにくいと思うんですよ。


ある程度レベル上がって来たらより上位の人の凄さわかってくる。
それ自体はとても大事なことだけれど、「凄さがわかる」ことと「自分が凄い人になる」ことは近くて遠い話だと思う。「凄さ」を知った時はそれを他人に当てはめるんじゃなくてできるだけまず自分でやってみてその実践の結果を書いてもらった方がいいかな、と



そんなわけで、この記事は、本気ではあることそれ自体は素晴らしいけれど、本気になる場所を間違ってるんじゃないかなーと思いました。このままだと「はてなアイドル」みたいな展開しか見えてこないですね。



でも、そういう危うさというか豪快にずれを感じさせるところ含めて私はこの記事が大好きです。
今後も楽しみにしております。