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「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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「イムリ」15巻 自分の誤りに気づいた時に、謝るよりはるかに大切なこと

ストーリー上それほど重要ではないが、戦争を知らなかった幼い女の子が、ゲリラのいる村に立ち寄るシーンがある。

村人たちは何年も獣の皮を被って戦い続けているから当然獣の匂いが立ち込めている。女の子はろこつに顔をしかめながら「臭い」を連呼し、村の人達のもてなしに対しても「ここは臭すぎる。他の家に行きたい。隣の家は遠いのか?」と聞く。

何も知らないで素直な感情を述べただけなのだが、ゲリラの人たちを深く傷つけている。そのことを指摘され、自分の誤りに気づいた時、女の子はどうしたか。この時の会話がちょっとぐっときた。

「ねえ、チムリ。みんな、獣の皮を着て戦ってる。 臭くなるのは当たり前なんだ。失った家族のため、臭くても皮をきて戦おうって彼らは決めたんだ。だから、あんまり臭いって言わないでやってほしいんだ」

「……わし、そうとはきづかんで。胸がいたいでよ。あやまらねばな……。」

こういう時はあやまるよりわかったことのほうが大切だ。わかったことによって胸がいたんだってことのほうが大切なんだ。あやまれば、チムリの胸の痛みは和らぐかもしれない。でも、そのせいでせっかくわかったことを忘れてしまうことも多いんだ。だから俺は、痛くても胸の中にあった方がいいと思ってるんだ。そうやってわかったことが胸の中にちゃあんとあれば、次にどうすればいいかをその痛みを教えてくれるからだ。」

無神経に相手にとって無礼なことを言ってしまうことはあります。そういう時に相手に対してどうあるべきか、はもう山程語られているのでいったん置いといて、として、「自分に対しては」どういう態度が大事なのかな、ということを教えてくれていると思います。

ネットを続けていくなら「無知の鎧」をかぶり続けることは悪手だと思う

最近はてなブログでは、そういうフリなのか本当に無知なのかはしらんけど(それはこちらからしたらどっちでもいい)、ろくに確かめもせずにやたら無神経なことを言ってはろくに反論もこないうちから大げさに謝って「謝ったんだから問題ないよね」「私馬鹿だから仕方ないよね」を繰り返す人を見る。

明らかに自分の発言の何が問題だったのかちゃんと理解しようとしてないし、理解しようとしないから何も学ばない。結果として何度も同じ間違いを繰り返す。まるで「自分はその振る舞いが許される」と思っているかのようにこちらからは見える。

この人達、やたらと「自分は馬鹿です」だの「低学歴アピール」だの「こじらせアピール」だの「メンヘラアピール」だの「下から目線で言うけど」を先に自分からするのも特徴。自分なりに予防線を張っているつもりなのだろう。いわゆる毒舌系と違って、自分の発言について責任を取るというか、当然かえってくるであろう反応を受け止める気がない。先に謝っておくみたいなのもある。


そういうの、さすがにちょっと卑怯じゃねえかな、と思う。でも、今のネットってそのくらいしないといけないってビクビクしてる人多いんだろうなとも思う。なんせ予防線貼っておかないと「こんなことも考えてなかったんか」といちゃもんを付けられ、予防線を貼っておくと「こんな予防線張るくらいなら書くな。予防線のせいでよみにくいしつまらん」みたいなことを言われる。「ロバ売りの親子」の気分になる。
「ロバ売りの親子」 - この夜が明けるまであと百万の祈り


ただ、それでも無知で間違ったり失礼なことを言った時に、「どうせ無知ですし」って開き直るのも「素人のブログになにまじになってんの」みたいな反知性主義的な態度をとるのも絶対に嫌だ。その人達のことは相手にしないけど、自分の中で間違ったことをしたな、と思ったら「恥ずかしいなぁ」とか「知らずに傷つけてしまって胸が痛い」という気持をごまかさないようにしたい、というお話です。


「イムリ」は語りたいこといっぱいある。戦争についての話でもあるけれど、それ以上に
コミュニケーションスタイルに関する寓話だと思っていて、はてなーならこの作品みんな読んで欲しいくらいに思ってる。