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「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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「トクサツガガガ」46話  子供嫌いの吉田さん、の話が良かった

最初見た時絵がちょっと苦手かな、と判断してスルーしていたのですが、

『トクサツガガガ』の大人像がステキ - 水星さん家
この記事を通してトクサツガガガを読んでみたらこの作品ホントに好きになりました。今年一番おもしろい作品、は別にあるものの今年一番好きな作品は?と言われたらこの作品を上げるかもしれません。多分何度も読み返す系です。

創作へのあこがれが自分を駆動し形成していく物語だったら「SHIROBAKO」「2代目はこすぷれーやー」からもうやまほどあると思いますが、そういう中でもこの作品は素晴らしいと思います。「SHIROBAKO」が好きになれた人には絶対に読んで欲しいです。

水星さん、本当に有難うございます

吉田さんの子供嫌いはどうやって形成されていったか

この回では吉田さんの「子供嫌い」がどうやって形成されたか描かれています。

①もともと吉田さんは嫌いだったわけではない。「そんなに興味が無い」だけだった。

どうしよう……
私、そんなにみたいと思わない…
違いがわからない……
言うほど可愛いとも思えず……

②でも吉田さんは真面目だからみんなと同じようにできない自分がおかしいって思ってしまう。罪悪感を感じてしまう。どんどん苦手意識が膨らんでいって、ついに子供をみると顔がひきつってしまい、その意識が相手に伝わってしまう

「吉田さんってもしかして、子供嫌いなの?」

あの罪人を見るような眼……
蔑みのような、憐れみのような……
仲村さんにも顔ひきつってるって言われちゃったし……

③こうして、別に嫌いという程ではなかったのに、いつの間にか嫌いということになってしまう。そして、自分を子供嫌いとして受け止め、子供を避けるようになってしまう。苦手意識を持ったまま距離を置き続けていると、どんどんその意識が定着してしまう。ついには子供の方から距離を詰めてくると、逃げ出してしまうまでになってしまった。


つまり、吉田さんにとっては、子供そのものが嫌いというよりは、「子供が好きでなくてはいけない」「子ども好きでないと周りの視線が痛い」という空気が辛い。子供にまつわる社会的圧力を吉田さんが強く感じていることのほうが要因として大きいんですよね。




これは子供にかぎらず「~べき」や「信者」が多いテーマだと結構同じ現象が起きていると思います。もともとは「普通」「そこまで好きではない」「ちょっと苦手なくらい」だったものが「これがわからない人は残念だ」みたいな目線が強まると、すごく窮屈で不快な思いをさせられる。その窮屈さや不快な思いが、そのままテーマそのものにぶつけられてしまったりする。


以前に記事を書いた麻枝准作品では、感想が「好き」「楽しい」とか「嫌い」「苦手」にとどまらず「信者」と「アンチ」の争いになってしまっている不幸なケースが多々見受けられたりします。他にも「社畜がどう」だとか「最近のラノベがどう」だとかいろいろ有りますね。それが大事な人にとっては大事なのですが、その人達が自分たちのにこだわればこだわるほどそれほど興味なかった人や、ちょっと苦手だった、くらいの人たちが引いていって「嫌い」になってしまうのかもしれません。

こんなに苦しいなら、俺は愛などいらぬ!

……すみません間違えましたこれは違います。これは信者側の反転ですね。ちょっと苦手だった人が嫌いになるのは、「すっぱい葡萄」などの合理化に近い話だと思います。



「子供を好きにならなければならない」という強迫観念を和らげる

その人が「子供嫌い」という状態で安定していられるのであれば、それはそれで一つの選択として他人がとやかく言うことではないのかもしれません。嫌いが高じてそれを声高に主張するようになったり、バカにするようになったら迷惑ですが、そうでないなら問題ありません。

しかし吉田さんは自分が子供嫌いであることについてとても苦しんでいるんですね。何かが嫌いだけど、嫌いなものとの接触が避けられない、というのは本当にしんどいです。ましてそれが一般的に理解されていないものであると、なおさらですね。そこでなんとかならないか、と考えた主人公の仲村が吉田さんにがとった行動は……

こちらの記事に書かれています。この記事も素晴らしいのでぜひ読んで欲しい。
『トクサツガガガ』「理解できない行動を理解しようと努める」大切さ - 水星さん家

理解の補助線を作ります。
仲村自身この考え方を「そうなんですよ。そういうことにしておきましょう」と言う通り、この考え方は若干無理も見えます。ただ、必ずしも考え方が正しい必要はなく、自分の中で納得できるかどうかが問題なので、こうした理解のアプローチを図ること自体が大切なことなのです。

自分も相手も否定すること無く、かと言って自分が無理をして相手に合わせるでもなく、自分なりの着地点を見出す。こういうアプローチって何事においてもすごく大事なんだと思います。

「コウノドリ」3巻 自然分娩にこだわる女性の話が良かった - この夜が明けるまであと百万の祈り


これを読んで、自分のアプローチのあり方も考えなおさせられました。

私は苦手なものや嫌いなものが多いです。理不尽というか、自分の感覚でバランスがいびつなものがとにかく嫌。で「嫌いかもしれないもの」は放っておけばいいのに、ほうっておけない。嫌いなものを見ると、負けず嫌いが発動して克服しようとしてしまう。嫌いというオーラを出したまま体当りしにいく。その結果として自分が理解する前に相手から嫌われたり、自分もそれがより嫌いになってしまったり、嫌いなものと接してる時の自分そのものに自己嫌悪したり。何やってんだ私は……と一旦冷静になって距離おいてはまた元に戻ったり……と頭を抱えることが多いです。


そういうのを和らげるアプローチを取ってみる。あるいは苦手なら苦手で、興味ないなら興味ないでいいんだ、という受け入れ方をしてみて、落ち着いた状態で考えてみる。それができればもうちょっと楽になるかもしれないな、と思います。