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「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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言葉の重みとか軽さとか

言葉は、発する前ならいくらでも自分の中で変更可能だ。でも発してしまった後は自分だけの自由にできない。発してしまった後、それをどう扱うかということの大部分は受け手のものになってしまう。だからこそ、自分の内側にあるうちにいろいろ練っておくといいよねって思う。


言ったことに対して、別の言葉で取り消したり、別の言葉で意味を変更したり、別の言葉で補足したり。そういうことはできるけれど、一番最初の言葉を言ったということ自体は取り消せないし、その時相手に望ましくない受け取られ方をしたら、そのことは取り消せない。


言葉をいつでも取り消したり後から意味を変えられるなら、言葉を発することの意味が限りなく軽くなってしまう。一度言葉として発してしまうと容易に取り消したり出来ない。言葉を発するということは容易に取り返しや変更が出来ないということ。そういう怖さってあると思う。少なからずこういう怖さや前提を持っているから、みんな言葉を発する前によく考えるし、相手のことも考えるって話になるのかな、と思ってる。




でも、最近はそうでもないのかもしれない。多分、言葉を発した後でも、その言葉の権利は全部自分が持ってると思ってるのだと思う。 特にブログとかツイッターやってる時、そういう前提で言葉を発する人って結構多いと思う。

例えば、ここは俺の城だからここではおれが何を言ってもいい。違った意味で解釈する奴は許さないだとか、これはただのつぶやきでひとりごとだから何を言っても他の人には関係がないだとか、たとえ間違いがあったとしても後付で「そうだ、こういう意味だったことにしよう」と意味を変更しても許されるはずだだとか考える。

そんな風に、言葉ってものを、発した後でも変更できるしなかったことにできたり、自分ですべての意味を決められるという前提で考えて発される時、その人の発する言葉ってのは全然重みを持たないと思う。




別にどっちがいいとか悪いって話でもない。言葉の重い軽いと良い悪いは一致しない。
それぞれの状況で、人が自分の言葉にどの程度の重みをもたせようとしてるのか、ってのを意識したいなと言うお話。それは、例えばコミュニケーションの齟齬が生じた時に、どういうリアクションを取るか、などでわかることなんだろうと。