極論芸人の長谷川豊さんが、暴言からパクリ、反論できないところは沈黙して露骨な話題そらし、謝罪もできないで開き直る、などなどダメなネット言論の見本市として話題になっていますね。
長谷川豊さん個人に対してはもうつっこむ気にもならないし、透析関係の話題は不案内なので、そのあたりは詳しい人に任せるとして、私は別のことを考えたいと思います。
これ、ネットで記事を書いているすべての人に見てもらいたいなと思う。
長谷川豊さんのようにならないために意識しておきたい2つのマインドセットの違い 「兵士のマインドセット」「斥候のマインドセット」
①動機づけられた推論 →兵士のマインドセット →謝ったら死んじゃう病
そのような微々たる証拠で 有罪だと思い込む人間の心理とは 何なのでしょう?これは科学者が「動機付けられた推論」と 呼んでいるものの例です
意識していない動機や願望や恐怖が 情報の解釈に影響を及ぼす — という現象です。ある情報や考えに対して 私たちは味方のように感じ、それを勝たせたい 守りたいと思います。
別の情報や考えに対しては 敵のように感じ 叩き潰したいと思います。だから私はこの動機付けられた推論を 「兵士のマインドセット」と呼んでいます。私たちの判断は 無意識のうちに どちらに勝って欲しいかに 強く影響されているんです。
これは至る所で 見られるもので 私たちの様々な考えが そうやって形作られています。
健康 人間関係 誰に投票するか、何が公正で 何が倫理的か。
この「動機付けられた推論」 ないしは「兵士のマインドセット」が怖いのは、それが無意識だということです。
自分では客観的で 公平だと思いながら 無実の人の人生を 台無しにしかねないのです
皆さんも、その時は絶対に正しいと思っていたけど、後から考えたら、あの時「兵士のマインドセット」になっていた、と思うときってありませんか?
数年前に自分の書いたブログ記事を読み返して、うわあああなんでこんなこと書いてたんだ俺は! とか思ったことありませんか? 私はあります。
こういう状態になってるとき、ってもうすっかり心の中で「勝ち負けの勝負」になっているんですね。
だから、相手のあらさがしをするし、自分の心の中で勝利を得るために、たとえ信用を失うようなことでも平気でする。
もう自分が何を言っているのかわからなくなって「全く論理的におかしなことをロジックだ、論拠だと言い張る」ようになります。
とにかく自分が正しくて、相手が間違っている、という結論になるなら、手段を選ばなくなる。こうなったらもうおしまいですね。
彼はこの発見を 上官に報告しましたが、落胆したことには 彼らは無関心か 手の込んだ説明を するばかりでした。
「それはドレフュスの筆跡を真似た 別のスパイが現れて スパイ活動を引き継いだ というだけで ドレフュスが有罪なことに 変わりはない」
あまりこの「兵士のマインドセット」という言葉を言葉を他人に向けて使ってほしくないですが(と言いながら長谷川さん対して使っちゃってますが)、言い争いになってるときなどに、自分はどうだろう、相手はどうだろう、って考えてみると、少し冷静になれるかもしれません。
②自分の当初の考え方に固執しない →斥候のマインドセット →「ひろいこころで」
兵士のマインドセットが時によくないということはわかったけれど、じゃあどういう風なマインドセットに切り替えたらいいのかとして提示されているのが「斥候のマインドセット」です。
「どちらのアイデアを勝たせよう というのではなく 本当の姿を可能な限り 正確に素直に見ようとする — それが都合が良く快適で きれいなものではなかったとしても」
好奇心が強く 新しいことを知る喜びや パズルを解きたいという欲求が 勝っている傾向があります 何か予想に反するものに直面すると 興味を惹かれるのです。
自分の思いこみが正しいのか 試すのは良いことであり 考えを変えることを 弱さとは思っていません。
そして何より斥候は 自分がしっかりしています 自分の人間としての価値を 何か特定の事柄で正しいか間違っているかと 結びつけて考えません。
まぁ一言でいうとオープンマインドというやつです。
自分が知らないものや、自分と違う考え方の人に対して、寛容というか、積極的に興味を持つということです。
ハイキュー!10巻 「自分はまだ下手くそで、本当の楽しさをまだ知らない」という希望 - この夜が明けるまであと百万の祈り
「ここまでは分かった。でもまだ自分に見えていないものがたくさんあるはず」という姿勢が好き - この夜が明けるまであと百万の祈り
はっきりいって、私は現実においては、心がかなり狭いです。
私の職場における人間関係は距離が近すぎて、決まった考え方をすることを求められがちです。
そのせいか、ちょっとした違いでも、いちいち干渉される。
それを説明しようにも「違う」ということだけが問題でその違いに興味を持ってもらえないことが多い。
同時に、私もあまり余裕がなくて他人のいろんな点に興味をもつということをしない。
他人に興味を持たないことで、なんとか息切れせずに日々をやり過ごしてる、みたいなところがあります。
とにかく現実は人と人との距離が近すぎる。隙間がなさすぎる。違いを受け入れる余裕がなさすぎる。
それに合わせて、いろんな情報をシャットアウトしたり、「負けないように」気を張ってるところがあると思います。
「兵士のマインドセット」寄りになってるかなと思う。
でも私はこれが当たり前にならない。うまく適応できていないと感じます。
私はしんどいんですよね。こういう状態。もっと個々人が違ってていいと思うし、そういう個性が認められてほしい。
そうでないと、すごく窮屈に感じる。しんどい。すごく、生きづらい。
だからこそ、せめて人と人との距離が遠く、関係が「疎」であるネットにおいては
ある程度寛容というか、意識して違った考えの人に興味を持つようにしたいなと思ってるわけです。
まぁ、どうしても地力が弱いから、あんまりできてないかもしれませんが、できる限りは「斥候のマインドセット」を失わないようにしたいです。
自分たちの判断力を 本当に良くしたいと思うなら 最も必要になるのは 論理やレトリックや 確率や経済などの知識では ない。
それはそれで貴重なもので あるにしても そういった原理を使いこなせるために 最も大切なのが 斥候のマインドセットなんです。自分の感じ方を 変える必要があります。
自分の間違いに気付いたとき 恥ずかしく思うのでなく 誇りに思うすべを 学ぶ必要があります。
自分の考えと相反する情報に出会ったとき 防御的になるのでなく それを面白いと思うすべを 学ぶ必要があります。
大事なのは「頭の良さ」ではなく、好奇心を持った話題について語るようにすること
「兵士のマインドセット」「斥候のマインドセット」のどちらかが常に正解というわけではない。それぞれ適した状況で使うべきなのかなと思っています。
それに、どんな人でも「兵士のマインドセット」一本やりということはないということも確信しています。
誰だって、自分が興味あるもの、好きなものについては自然と「斥候のマインドセット」になれるはずです。
ここ最近、私はとある人と揉めてたんですが、周りから見たら「お互い」にこんな状態になってたんだろうなと思います。冷静に話し合おうにも、相手がこの「兵士のマインドセット」になってしまうと、人格攻撃や、難癖をつけてマウンティングしてくるので本当に面倒だなぁということがよくわかりました。
ただ、私と話しているときだけ見ているとこの人は完全な「兵士のマインドセット」で、とにかく私を打ち負かすためならどんな理不尽もいとわないような人に見えると思います。でも、この人だって、自分が好きな分野においてはむしろ「斥候のマインドセット」を十分に発揮できる人なんですよね。そういう時に書いてる記事って面白いです。
私も常に「兵士のマインドセット」を持っているわけではなくて、やはり好きなことを考えているときは「斥候のマインドセット」の時があると思います。あるといいな…。あるよね……。
気に入らない一面だけを見て、それで人を決めつけるのではなく、できるだけ好ましいと思える面を見て付き合えるといいよね。
この性質は基本的には 頭の良さや知識の多さとは 関係しないということです。
実際 IQとは さほど相関していません どう感じるかが問題なんです。
たえず私が立ち戻ってくる サン=テグジュペリの言葉があります。 あの『星の王子さま』を書いた人です
「船を造りたいなら 木を集め 手分けして仕事するよう 部下に命じるのではなく 広大で果てしない海への憧れの気持ちを 引き出してやることだ」
本当は、みんな自分が興味があること、面白いと思うことを積極的に発言できる場所であればいいと思うし、面白いと思ったことについて、興味を持った人と話ができればいいのにね。
と、いうわけで。
ネットをやってる人はこの2つのマインドセットを意識して、「斥候のマインドセット」を持つように心がけてみると、何か変わってくるかもしれないよ、というお話でした。