えーと。
「聲の形」 なんでみんなそんなに簡単に西宮硝子のことを簡単にわかっちゃうの? - この夜が明けるまであと百万の祈り
これ書いた後で映画を見に行きましたが。
すみません、なんか確かに原作と映画で印象はだいぶ違いますね。
なんかすごいさわやかな話になってた。
なにより、石田視点中心なので、原作読んでなかったら石田がすくわれるみたいな話に見える人もいたかもしれない。
その他のキャラについてもだいぶ黒さや苦悩の部分がマイルドになってて、これだと反発感じる人いるかもしれないなとは思いました。
原作を前提にしてお話ししてたのでその部分は自分の認識が間違ってたと思います。
とはいえ、ラストシーンを見たからといって、
彼が乗り越えるべき壁は多数あるわけで、アレ全然ハッピーエンドでもないよね。ようやくリスタート。
むしろ、原作がひとまずめどをつけてくれたのに対して、映画版のほうはその部分を描いてくれていないので、
何も知らずに見たら、こっちのほうが未来が不確かでしんどいかもなあって感じました。
「メイド諸君!」のエンドに似た暗さを感じてしまいます。
とにかく京アニ様ありがとうございます。植野とゆづるがめっっっっちゃかわいかった。
ストーリー的には尺の都合もあってどうしてもなんか違う……と思うところもありますが、
とにかく二宮硝子の表情の描き方や、女の子の体の動きとかがすごい。その他も言うに及ばず。
映像作品としてはものすごく満足度高い作品でもありました。
とにかく植野かわいい。むっちゃくちゃかわいい。 原作の私服姿はあまり描きこまれてなくて、だいたい無地のシャツ来てるだけだったんだけど、映画版はオシャレになっていて、日によって変わる私服見るだけで「ああ~^ かわいいんじゃ~」 ってなります。
そしてゆづる……。
展開全部わかってたのに、それでもやっぱり植野と二宮母が喧嘩しているシーンで佇んでるゆづるの姿を見たらどうしても我慢できなくて( ;∀;)出てしまいました。
彼女は生意気に見えるけど実はむちゃくちゃ臆病。ずっとずっと不安で、それを抑え込んで、自分をだまして、大丈夫って言い聞かせながらなんとか生きてきた彼女が、それまでの努力をすべて否定され、心の支えを全部失って自分の無力さに打ちのめされてる。しかも、結弦は、植野が姉を殴るところは止めないんですよね……。姉のことも信じられなくなってる。しかも、映画では描かれてないけれど、最後のトリガーを引いたのはゆづるなんですよね……。ここほんとにつらい。
(橋での空中分解の後)
石田は友達にひどいことをしてしまった。オレには、石田は煩わしいものを取り払ったように見えた。
映画製作は空中分解。姉ちゃんは会話が聞き取れずずっとおろおろしていた。
何があったのかそのあと聞かれた。本当は教えたくなったけど、ふりきれずに教えてしまった。
みんながなっていって、石田がなんて言ったか。
予想はしていたようだった。俺が話し終わった後も一言、ありがとうというだけだった。無表情で……
たぶん姉がそのまま死んでたらゆづるも生きていられなかったと思う。ここ、映画見ただけでわかりにくかった人は、ぜひ原作読んでみてほしい。
みなさんには原作を読むことを是非におすすめさせていただきたいですが、私はこの作品のBD出たらたぶん買うと思うよ。
ところで、この作品、上映終わった後帰り道のところで立ってたらみんなすごい思い思いに語ってるのね。こんなに観た人が直後に熱心に語ってるの見るの久しぶりだったかも。この作品やっぱり感情揺さぶる力、考えさせる力があるとは思います。 それが良い方向に働きますように……。
原作について
原作との一番大きな違いは「みんなで映画製作する」ことの有無ですね。
これがないと、橋でみんな集まるシーンや、エピローグ部分で学校の違うみんなと学園祭で集まっているシーンは少し違和感感じるかもです。
また、これがないと、なんで西宮がいきなり自殺しようとしたのか「石井君が築き上げてきたものを壊してしまった」の重みが違ってくるかな。
当然これは小学校時代の「合唱コンクール」リベンジであり、
彼ら彼女らが、どの部分で成長して、どの部分は成長することが阻害されてきたか、という部分が描かれます。
もともと過去のせいで非常にぎこちない関係だったわけですが、
ここでみんなが「利害関係」によってつながり(友情では全くない!)、共同作業をしようとする。
そしてこれをきっかけに、みんなのエゴが表出されていきます。
当然その過程では些細なことで喧嘩したり、仲直りしたり、お互いを評価しあったりという積み重ねが起きます。
主に5巻~6巻での内容なのですが、メンバーみんな、自分が傷つけられることに対して過剰に敏感で、そして他人に攻撃的です。
少しでも傷つけられると相手を拒絶して、相手にマウンティングを仕掛けに行きます。
主人公も、なにか責められたら「どうせ俺には無理なんだ」といって逃げ出そうとする。
自分が傷つけられたり否定される怖さにどうしても太刀打ちできないわけですね。
石田のこの時の状態は、小学生時代から西宮がとってきたスタンスとずっと同じです。
希望は持ってるけど、それを信じきれない。怖くて受け身になってしまう。そして逃げてしまう。
特に映画製作が空中分解した後、西宮に依存して自分をごまかし続ける石田の姿は醜悪です(一応、「自分は西宮といても不幸じゃない」ということをアピールしたかったんだと思いますが)。
他人のことは全部あきらめてしまう。他人のことを考えるのをやめてしまう。
でもこれ、間接的に西宮がやってたことはこういうことだって描いてるんですよね。
ここのうじうじした部分を見ているからこそ、そのあと西宮さんが小学校の時どういう状態だったのかが明かされたときに
「ああ、そうだったのか」「そりゃそうだよな」「わからないと思ってたけど彼女も普通の、臆病な女の子だったんだ」ってことがわかると思う。
(映画版だと、最後まで彼女が考えてることがよくわからないって思う人がいるかもしれない)
ほかにも、小学校時代から石田と出会うまでの西宮さんについて全く語られないまま終わってるとか、闇が深くてやばい。
想像力豊かな人だったら、映画だけでも感じ取れるかもしれないけれど、納得いかないなーって思う人がいたら絶対原作読む価値あると思う。
あと読んでみて「あっ」って思った記事があったので最後に紹介。
いじめっこが救われて都合良すぎとか、いじめられっ子の側としてこの話胸糞悪いとか思う人いっぱいいると思うんですけど、そんなん言うてるうちはガキですよ。この話を見てひとつ思えるのは「大人ちゃんとしよう」ってことですよ。大人がちゃんとしてなかったから、10年近いスパンで子供がみんな悩んでもがいて傷つけあっている。何も悪くなんかないのに、わかりあうのが人より少し難しい子供が「やっぱりわかりあえない」経験をただ漫然と重ねていく。追い詰められたら反省して後悔できるような人間が、大人に諌められることもなくいじめを邁進して、反省したって許されないところまで突き進んでそうしてつまらない人生を送る方に舵を切ってしまう。これ全部大人のせいでしょう。あの小学校のクラスの担任はもちろんにせよ、石田将也の親も西宮硝子の親も、あの段階でもっと自分の子供に言えることあったんじゃないのとか、大人になってああいう話を見て思うのはそういうことなんですよね。小学校のときのあの出来事が高校生になった時にやっと、あの時の当事者であった子供たちだけの手によってやっとこさ、解決ではないにせよ、少しやっと前に進み始めることができるってことが、あの物語の中での最低限の希望で、そうやって子供だけで何とかするしかないし親も子供みたいな顔でしか参加できないってことが最高に絶望的なリアリティであったような気もします。
1巻で、石田家の状況は描かれており、石田が世界に押しつぶされるような感覚にあらがおうとしてたってのは結構大事だ、くらいには思ってたけど
作品全体で、子供たちがエクスペルドな状態になってるというところまでは意識が及んでなかった。このあたり大事ですよね。
『心が叫びたがってるんだ。』 すごくごちゃごちゃした印象を受ける作品 - この夜が明けるまであと百万の祈り
この作品同様のテーマを描き切っていた「とらドラ」と並べて語るのが本当はよいかもしれません。
いろいろ読んでたところで、こういう時に指摘されるまで思いつかないようだと役に立ってませんよね……。反省。
どうでもいいけど、西宮のお母さんあの後再婚してるのかな?*1
*1:このお母さん、何気に同人人気が非常に高い人で、いろいろ想像を掻き立てるところあるよね