ポリコレとか反ポリコレという言葉で殴り合いをしていたら、いつの間にかその上位レイヤーの概念として「post truth」という言葉が出現した。
再魔術化とかそういう話ではなく、その前提となる言葉の持つ力自体が死ぬという恐ろしい世界観の話だ。
“Post-Truth”の時代のストーリーテリング:VOL.26特集「WIRED TV」に寄せて|WIRED.jp
情報が多様化し、社会が多様化するにしたがって、社会を円滑に動かすための共通のプロトコルやコードが失われていくなかで、ぼくらは、いわゆる「言論」というものを外側で支えていたはずの前提が失効していくのを、2016年を通して、驚きとともに(メディアビジネスに身を置く身としては、なすすべもなく)眺めてきた。そして、気づけば「事実」や「真実」というものすら失効していくような“Post-Truth”(日本語版記事)と呼ばれる世界が、ぱっくりと口を開けて待っている。事実というものすらその根拠を失って、不定形のあやふやなものになってしまう世の中
FGOでは、人間が神の世界と決別を告げ、人間の時代を取り戻すような胸が熱くなる展開が描かれた。一方現実におけるネット社会はその逆で、人間が人間の時代を放棄して再び神にその人間性を捧げる時代が訪れようとしている。
2016年は、エビデンスベースととかファクトに基づいた話という考え方自体が徹底的に毀損された感じがする。
佐々木俊尚さんは「キュレーションの時代」において「島宇宙」という言葉に変わって「ビオトープ」という言葉を提唱した。この「ビオトープ」は人間主体の発想であり、越境が自由なイメージであったが、結局ネットは「島宇宙」になってしまった。結局、それぞれの宇宙ごとに違った神が語られる神話の時代に逆戻りした。
「post truth」の世界は、人間の時代の終わりである。人間にとってかわってPVやソーシャルグラフがものを言う世界であり、AIやgoogleという神への信仰が問われる。人間は、自らが作り出した神によって支配され、神の目に映らないものはすべてなかったのと同じとされる。そこでは人間性などゴミ以下の価値しか無い。
神は「Don't be evil」の刻印を刻まれていたがそんなものには意味がなかった。宗教というのはどれだけ神を善なる存在として、あるいは中立な立場としてこしらえてもその信者がevilであったからだ。いついかなるときも宗教においては短期的には「evil」なものが強い。evilなものが繁栄を誇ったのが2016年だった。
その前提にあるのは「PV至上主義」という名の擬似科学なんだろう。
ブレグジット、トランプ、そしてDeNA以降の社会のありようを、海外のメディアは秀逸にも「post truth」と名付けた。
のどごし勝負の市場原理、すなわちニーズ至上主義と、それをドライヴすることにおいて何にもまして威力を発揮するデジタルテクノロジーが手を組むことによって生み出されたこの奇怪な現象の奇怪さは、それを批判したところで批判がまったく意味をもたないという点にある。
何せ相手は閉じた系のなかでウィンウィンの関係にあるのだ。である以上、その系のなかにいる人間は、外部に耳を貸す義理もなければ義務もない。いや、市場という外部の信任を得ている以上、それは「正義」ですらある。そこでは議論はおろか、対話すら成立しない。インターネット以降、そしてソーシャル以降、「外部」というものがどんどん失われて行っているようなイヤな感じをずっと抱いてきたが、それが、いよいよ本格的に実体的なものとして姿を表したのが2016年という年だった。
自己充足した閉じた村に住まわされ、ひとつの村を出たとしてもただ自動的にまた別の村のなかに組み込まれてしまうような世界に「外部」はない。村を出て、よその村の誰かと対等な存在として出会うためのコモングラウンドもない。それが安心で十分に満ち足りた世界であるなら「村の外」は必要すらない。
“Post-Truth”の時代のストーリーテリング:VOL.26特集「WIRED TV」に寄せて|WIRED.jp
誰かの「正義」は誰かの「不正義」となり、誰かにとっての「悪」は誰かの「善」となり、その逆もまた然りといったかたちで、その「困難さ」は露わになる。そこでは、民主主義や自由意志といった、「価値として自明」であったはずのものすら溶け出してかたちを失う。
考慮すべきパラメーターが膨大にあり、利害関係や個々の諸事情や心理までもが複雑に絡まり合う世の中にあって、その複雑さを、その複雑さを保ったまま取り出して記述することはとてつもなく難しい。
はてなでも、誰もが他のグループの誰かを「互助会」と罵り合うような不毛すぎるやりとりが多発していたけれど、もはや全てが互助会であり、そのやりとりには意味がない。なにより、みんな仲間の内側にいればWin-Winだと本気で思ってるのだからその外側には出てこない。
そこに対話の余地はない。「ネット」は細かく分断されて、もはやネット全体については「みんなばらばらだね」という形容しかできなくなるのかもしれません。ネットそのものについて語ること自体がナンセンスというか。まぁ、もともと「大きな物語」なんてネットにはなかったと思えばそれほど問題ないのではないでしょうか。
というわけで、もともと私はネットの世界がこうなる前から他人と対話をしない「ネットの中でも引きこもり」人間でありましたので、そういう流れとは距離を取りながら、今年もネット引きこもりライフを満喫します。