頭の上にミカンをのせる

「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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「ド根性カエルの娘」書き散らしメモ

こんなん感想書くの無理だから、とにかく思いついたことをメモしておきます。

憎むとは 待つことだ
きりきりと音のするまで
待ちつくすことだ  (石原吉郎

望郷と海 (ちくま学芸文庫)[Kindle版]

石原吉郎 筑摩書房 2013-11-08
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田中圭一が、弟視点で吉沢家を美化する作品を描いたのは2015年1月
【田中圭一のペンと箸-漫画家の好物-】第八話:「ど根性ガエル」吉沢やすみと練馬の焼肉屋 - みんなのごはん

「ド根性カエルの娘」連載開始 2015年7月11日。この時点では諸事情あってまだ思い切り描けない
http://weekly.ascii.jp/elem/000/000/355/355061/

母親の内助の功を褒め称える記事が上がったのは2015年8月
失踪、借金も乗り越え…『ど根性ガエル』原作者妻の献身 | 女性自身[光文社女性週刊誌]

作者にナタリーがインタビューを行ったのは2015年11月
「ど根性ガエルの娘」大月悠祐子インタビュー (1/3) - コミックナタリー Power Push

「これは、いつか形にするな」って、マンガにするビジョンが見えたんです。
──しかし実際に描き始めたのは、2015年の現在。その時点でマンガにしなかったのは、なぜ?

一番の理由は、たぶん弟に子供が生まれたこと。孫ができたら、父もさすがにまともになって。あと「ど根性ガエルの娘」を描いたことでも、少しずつ家族の形が変わってきているんですよ。みんなで昔のことを話すようになって、つらかったことを母が思い出して父とケンカしたり、逆に新婚みたいに仲良くなったり(笑)

信頼できない語り手 - Wikipedia

?年?月 父親が危篤状態に
?年?月 出版社を移転?

2017年1月 15話を掲載して話題になる




あっ。これは。刺し違える覚悟まで完了しちゃってる人だ。

あなた…『覚悟して来てる人』……ですよね
人を「始末」しようとするって事は、
逆に「始末」されるかもしれないという危険を
常に『覚悟して来ている人』ってわけですよね…

周りの動きに対して、このまま黙っておることは絶対に出来ないと肚をくくったのだろうか。たとえ狂人と呼ばれようとも、己の不幸を絶対になかったことにすることは許さないということか。

周りがどんどん吉沢家の思い出を美化して行き、自分も父たちや編集者の顔色を伺いながらいい話のフリをして予定調和の流れに合わせつつあったが、父が倒れたことによって思いが噴出したのだろうか。

自分でも許し、和解するつもりであったが、15話で描かれた父の態度によって、よしやはりこいつは許さないという気持ちのぶり返しがあったのか。


あるいは最初から、こうするつもりだったのか。いつかは隙を見て言峰が遠坂父にしたように、後ろから剣を刺し、唖然とする顔を見て昏い愉悦に浸るつもりだったのか。

どれが正解かはわからない。





なんとなくだが、わたしには作者は最初からこうするつもりではなかったと思う。自分なりにこの作品を読んで、勝手に作者のことを妄想してみる。

作者がこの作品を描いた動機を勝手に妄想してみる

12話を見ても、自分を殺すか、父や母をを殺すかの二択をずっと考えていたのだろう。それでも、どちらも殺さず自分が生きるという道を進もうとして、伴侶とも巡り合い、形式上の和解までは成し遂げた。


しかし、決着が着く前に父が自分に詫びることもなく、自分に対する態度を変えることもなく、しかもこともあろうに自分だけは幸せそうな顔をしながら死んでしまうかもしれないというその時になって、作者は大いに焦ったのかもしれない。それは作者にとっては逃げだと映ったのかもしれない。克服したと思った憎しみがどうしても抑えきれなくなったのかもしれない。


作中で、母親については、何度も作者に詫びる姿が描かれる。きっと作者は母親からの謝罪は受け入れているのだ。ひどいことを何度もされたけれど、母親は許すかどうかはともかく、深く反省して詫びているということは受け入れている。

しかし、作品中で父親は、自分の行いについて後悔はしているけれど、作者に対して一度も詫びている描写がない。事実はどうあれ、作者の中では、父親は作者に対して詫びていないのだ。作者が許したフリをしてやっているだけなのだ。むしろ母親が詫びている姿を執拗に描くことで、「ねえお父さん、あなたもわたしにいうことがあるんじゃないの?ねえ謝ってよ。そうしたらわたしもあなたを許せるのかもしれないのだから」って訴えかけていたのかもしれしれない。


父親を、許したかった。父親のためではなく、自分のために。父親にとらわれずに自分が前に進むために。それでも、自分だけでは、父親を許せなかった。夫という存在かあってもダメだった。ある程度距離を置いて振り返ることができるようになっても無理だった。どうしても、父親にわたしは辛かったんだと伝えたくて、そして父親にそのことについて謝って欲しかった。いつか、そこにたどり着くことこそが、作者にとってのこの作品のゴールだったのではないか。その結末に必要な最後のピースを求める作者の訴えやあがきが14話までだったのではないか。


罪と罰において、ラスコリニコフとソーニャは、お互いに事情を理解しあっていたが、それでもソーニャがラスコリニコフを受け入れるには、彼が罪を贖うという行為を絶対に必要とし、そこは妥協しなかった。

作者はそこまで厳しくはない。本当にたった一言でいいから、父親から自分に心から詫びて欲しかったのだと思う。

打ち切り作家の最後の煌めき

しかし、この、現実と連動した連載は、突如父親の危篤という事件によって頓挫してしそうになる。ジャンプマンガにおける打ち切り宣告のようなものだったろう。

さて、連載を続けて、目的としたゴールまでたどり着けない可能性が高くなったときに、「打ち切りが決まった漫画家」は決断しなければいけない。

どういう終わり方にするのか、だ。

このまま美談めいた穏やかな形で終わらせるのか、それとも、自滅覚悟で、作品の崩壊覚悟で、溜め込んできたものを未消化のままで、未解決なままで全てぶちまけるのか。

そして、作者はこれが狂人の行為と呼ばれることをわかっていて踏み越えたのかもしれない。この気持ちは、かんたんに理解できるなどと言って良いものではなかろう。


「狂人」になりますか?それとも己が不幸であることを諦めますか? - この夜が明けるまであと百万の祈り

およそ、不幸を伝え得ぬというほどの不幸はない。彼は貧しかったから不幸であった。野心に挫折したから、あるいは女に裏切られたから不幸であった。このような不幸には理由がある。つまり告白すれば他人が耳を傾けてくれるのである。だが理由のない不幸(略)をどうやって伝えられるか。しかもそれが日夜生理的に耐え難いほどに身と心を責めさいなむとすればどうしたらよいか。このようにいえば、人はおそらくそれは狂人の不幸、むしろ単なる狂気にすぎないというであろう。だが、私はそのような不幸の実在を信ずる。信じなければ、夏目漱石の作品にあらわれた仮構の秩序は理解できない、という理由によってである。仮構は一切の社会性――つまり他人と共有しうる可能性――を奪われている彼の不幸を、社会的なものにしようとする努力、つまり理解されたいという願望から生じる。願望はもちろん自らを狂人と認めて不幸の実在を撤回することの拒否から生ずるのである。

詩における言葉はいわば沈黙を語るためのことば、沈黙するためのことばであるといってもいいと思います。もっとも語りにくいもの、もっとも耐えがたいものを語ろうとする衝動がことばにこのような不幸な機能を課したと考えることができます

なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記 (岩波現代文庫)

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機能不全家族」の作品としてあなたはどの作品を思い出しますか?そしてどのような感想を持ちますか?

私はこれ読んでまず真っ先に「Papa told me」に、自分を捨てて他の女性のもとに走った父親を絶対に許さない、許せないという苦しみを創作のエネルギーにしてる娘さんの話を思い出しました。
「いつもいつも、自分だけが被害者だと思うなよ。人を傷つける権利があると思うな」 - この夜が明けるまであと百万の祈り

わかっている。ここにいる限り解放されることはない。
いつまでも傷口は開き、裏切りは重く、幸福はただあさましく。
そして私は全てを許せないまま
許せないことをたった一つの証明として---
(papa told me 22巻 ep108 モーニング・グローリー)

あるいはこの残酷な母親を見ていると「残酷な神が支配する」や「うつくしい子ども」を思い出しますね。

「うつくしい子ども」 残酷な神が支配するのグレッグを思い出してつらい - この夜が明けるまであと百万の祈り

神というのは愛、報復、許し、癒し、等々、人間が縋(すが)る対象なんですが、縋(すが)る神が実は残酷であったら、けっこうコワいですねー。だから支配するのは何でもよくて、支配するカミの性格に問題があるってのがミソですねー。


娘側のつまづきという意味では「華和家の4姉妹」を思い出しますし



他にも「Under the Rose」や「花やしきの住人たち」とか戸田誠ニ作品とか、瀬戸口廉也作品とか、もうほんとにいろんなものが思い浮かびます。最近読んだ「グッド・ナイト・ワールド」という作品ももろに機能不全家族でした。

「娘の家出」 papa told meが好きな人にオススメ - この夜が明けるまであと百万の祈り




中島義道なんかも母親への恨みつらみを執拗に書き続けてますし、三浦綾子の氷点もそうだし、少女漫画でもこの手のテーマの作品なんかは好んで読んでたりします。意外なことにりぼん(集英社)系に多いんですよねこういう作品。他にも、作者から父親に対する強い敵意・悪意・執着については東野圭吾の「悪意」とか聲の形の真島くんの「不作為の悪意」などを思い出しますし、なんというか、今まで自分が今まで好んで触れてきたところをビンビンに刺激してくれますね。



長々と作品を列挙して何がいいたいかというと、私はこういう話はぶっちゃけ大好物だということです。私はこういうゲテモノが好きです。*1
とにかくこういう「機能不全家族」の話は巷にありふれており、どれを読んでも「イタい」「痛い」感じです。そして、私はこういう「イタい」作品を見ては心癒されるようなところがあります。それは私自身が親とは全くうまくいかず、今もうまくいってないしうまくいく日が来るとは思えないからですね。それでもなお、架空の可能性としてそれを求めずにはおれないからですね。



でもやはり、なぜ作者がこの作品をこのタイミングで描いたのか、だけれど。母親も、弟も、許されない過去を許してしまいそうになっているから、なのかもしれないですね。お前たちだけ幸せになることは許されない、というような暗い気持ちで書いていたらそれはそれで面白いし、逆に、本当に今は暗い過去から距離をおいて、そのつらい過去をようやく直視できるようになったからこそ、逆にひどい過去をひどいものとして描けるようになったのかもしれない。でもやはり、前者だと思うんですよねー。



人間の「悪意・汚さ・醜さ」を定期的に確認したくなることってありませんか? - この夜が明けるまであと百万の祈り

知りたくもなかったのに気づいてしまった…わかってしまったことがある。私があの二人を見てずっと不快だった本当の理由。私は 認めたくなかったのだ。シンジが受け入れなかったのは惣流アスカラングレーという「存在」ではなく私だったということを。知りたくなんかなかった。私達にこんな可能性があったなんて。こんな未来も有り得たなんて。「私」は何も、間違えてなかったなんて。
私は…どこで道を間違えてしまったのだろう。今の私にはもう思い出せないし、こんな姿に成り果ててしまった私はもう今更それに気付いた所でやり直すことなんてできない。
一体…どれ位の月日が流れたのだろう。この醜くも・・・美しい世界が生まれてから。 (Re-Take0)

「娘の家出」の感想では、こういう機能不全家族ものについて、いい加減親のせいにするのはやめようよ、みたいな流れになってるのではないか?みたいなことを書きました。だけれど、こんな実話でド直球のものは相変わらず強いですね。。。

*1:ぶっちゃけブルーマンさんにしても、彼が母親に執着し続けるあまりミソジニーを垂れ流しにしてなければそこまでこっちも面白がって見続けたりはしません。最近は全てを母親のせいにしている彼が成功するか破滅するかを、肯定するでも否定するでもなく「聲の形」の真島くんのようにただ側で見続けたいです。●る●氏については周りが見えず攻撃性が高いということで、小人物過ぎて成功する未来が全く見えなくなったので興味なくしました。