カルバニア物語7巻より。
ライアンが言う。
「そもそも、私は嫌いなんだ。
絶対とか永遠なんて言葉を使う奴ら。
こんな有りもしない言葉で
馬鹿な人間同士が惑わしたり惑わされたり。この世には、絶対も永遠も魔法も奇跡もない。
君はもう知っているね。」「ええ。そうね、ライアン。でも、ねえ。
ときには必要なのよ。
私達が生きてゆくためにはどうしてもそんな言葉が。」あの死にゆく父の隣の部屋で、世界中の神様に祈っていた夜や、
今はもう、遠くで暮らす母を一人で思う時……「だから言ってね。うそでいいのよ。信じないから。」
「……タニア、カルバニアの女王陛下。
永遠の友情と忠誠を、君に誓うよ」魔法も、奇跡も、全て君の中に。
絶対も、永遠も、全部我々の中に。
このブログはタイトルに「祈り」という言葉を入れているわけだけれど私は基本的には何かに祈るということはあまりしません。
宗教も疑似科学も嫌いっちゃ嫌いです。
基本的にはそういうのに頼らないでいたいと思う安易に自分に対して「逃げればいい」なんて言葉を使うのも好きじゃない。
でも、よほど運が良くなければ、全てを理性で乗り切ることはまず不可能だということは認めなければならない。
それを否定すると、ドツボにはまる。
宗教や風水や疑似科学にははまらないかもしれないが、そのかわりにネトウヨに走ったり、TOSSやら情報商材やら互助会やらにハマったり、金があればキャバクラ通いしたり、本当に何も持ってなければ、ネットで何か敵を見つけたり、より弱いものを攻撃することで心を落ち着かせなければならなくなる。こういうのは全部宗教と同じか、もっとたちが悪いものといえるだろう。宗教を否定してそういうところにいってるようじゃ意味がない。
あるいは祈らなくてもいいように、あらゆるリスクから見を遠ざけるように鳴るかもしれない。日本なら賢く立ち回ればある程度の年齢までは可能かもしれない。つまり「老い」「病」「死」以外のリスクならだいたい避けられるだろう。でもそれはそれで人生つまらなくなりすぎてしまう。
だからつらくてやりきれない、不安でたまらない、そういう気持ちになった時、私は一時的に受け止めてくれたり、認めてくれる存在を求めるのは悪くない。いまのじぶんが弱ってて、情けない状態の時に、いっときそういう言葉に甘えるのを許すことができたら、多分もっと人生楽に生きられるんじゃないかなあ。生きてる限り常に浮き沈みはあって、その沈んだ時に、あるいは浮かれ過ぎた時に、理性で抑えきれない瞬間はあると思う。そういう時に何かしら頼る言葉は持っていたい。
ただの言葉でいいのだ。コミットなんて求めない。その場限りでいいから、私のために良いと思ったことを言ってくれ。その場その時だけでいいから、私のことを大事に思ってると感じさせてくれ。
嘘でいいのよ。どうせ信じないから。
http://anond.hatelabo.jp/20170403135713
「逃げても良いんだよ」と言われて逃げて、人生行き詰まったらどうする?
いいんだよ。自分がそのいっとき慰められるかどうかがだいじなんだから。
そんな奴の言葉に自分の人生委ねるのはアホでしょ。別にそう言われたからと言って本当に逃げなくてもいいんだ。
それでも、そういう選択肢があると、そのいっとき自分が思うことができればそれだけでいい。それを思い浮かべることで心が軽くなるなら、それは絶対に無意味ではない。言葉は言葉にすぎない。それだけでは長続きしないけど、そんな非力なただの言葉があるからこそそのいっときだけを乗り越えられる時もある。
言葉一つ一つは信じてなくても、そのことは信じてたりする。