トーンポリシングって何?って言う人はまずこちらを。
私は「トーンポリシング」という言葉を濫用する人が嫌いです
私の立場をはっきりさせておくと、「当事者」の主張以外に対する批判に「これはトーンポリシングだ」を主張する人は全て無視して差し支えない、という立場です。
私は怒りに任せた文章を書くことは否定しません。むしろなにかを為す時に怒りはとても必要なことであり、それをスタートにすることは必要だと思ってます。怒りが強い文章であっても、そこで語られている主張がただしければその価値は認められるべきです。 ただし、使う言葉態度が悪ければ、自分の主張が割り引いて受け取られたりはなのは当たり前であり、その態度ごと受け止めろというのは無理があります。
私は先日マルクスさんを批判する記事を書きました。めっちゃ怒りながら書いたので相当厳しい口調であり、少なくとも10名以上の方から「言ってることはわかるがそんなに怒ることか?」「口調が悪いから反発されると思うよ」というコメントをもらいました。そして、この反応は当然のことだと思っています。私がここで「お前は私の怒りを理解できないのか」などというのは傲慢にも程があると思います。
というわけで、私自身こういう文章を書いていることからおわかりいただける通り、「怒って文章を書くのは当然あり」という立場です。「怒って文章書くな」というのはトーンポリシングではなくただの言論弾圧です。それ以前の問題です。 怒りという感情は絶対に否定してはいけない。ただし、当然怒りにまかせて書いた分は、その分文章の価値を差し引くし、場合によっては「お前の態度が気に入らない」と言うし、逆に自分が書いた文章についてそう言われることも当然受け止めるよって話です。その人が怒っていること自体は「怒っているんだな」として受け止めるだけで、「怒りの強さ」は「主張の正しさ」と何の関係もありません。なにか主張があったとして、主張内容と、怒りは当然切り離して評価されるし。その「怒り」の部分に加算点があると思ってるやつは勘違いだよってことです。「私の怒りは正当だから、態度によって減点するのは許さない」だとか「トーンポリシングは既得権益層を利するから認めない」みたいなことを言うやつには反対だと言っているだけです。
トーンポリシングを主張する人たちは「感情が大事だ」と言っています。そうですね、感情は大切です。私は感情は否定していません。だからこそ、そこで感情をぶちまけることで理に合わない「忖度」を求めるようなことはしないでほしいです。あなたの感情が「感情をつよくぶちまければ自分の主張が通りやすいという打算や計算によるもの」でないならば特に問題がないはずです。
社会運動も社会思想も個人のルサンチマンをぶつけるための器ではない。社会思想を頑張ったら個人の怨念がどうにかなる、なんてことはない。そういう動機で取り組むとどっちも腐って酷くなってしまう。
そもそも「怒りを発する人」と、冷静にそれを表現できる人は別に居るでしょうから、前者は遠ざけ、後者の人から話を聞きたいのは当たり前です。それもまた感情ですから。自分都合の良い感情だけを主張して、自分の都合の悪い感情は否定するのであれば、それはもう横暴としか言いようがないのではないでしょうか。 「それもトーンポリシングだから認めない」というのであれば、もうその人と話すことはありません。
「我慢の限度を超えて」という表現の裏側にある「忍耐通貨」という考え方について
じゃあ「気持ち悪い」と言えなくなるまでポリコレ棒で殴られて下さい。 - 田舎で底辺暮らし
のトップブコメでこの「トーンポリシング」指摘が有るわけですが、つまり私はこういう主張を退ける立場だということです。
マイノリティ側が我慢の限度を超えて怒りを表明するとマジョリティ側が「そんな態度じゃ誰も聞いてくれないよ。"わかってもらう"ためにはもっと冷静になって」としたり顔で言うことをトーンポリシングといいます
いや、この記事で「トーンポリシング」を主張するのはおかしいでしょ。こういう杜撰な使い方する人がいるから「トーンポリシング」を主張する人間が嫌いなんですよ私は。
まず、この記事書いたpokonanさんの今までの所業を知ってると、「マイノリティ側が我慢の限度を超えて怒りを表明する」という評価がそもそも間違いではないかと思うわけで。私は上で述べたように「当事者」であれば冷静になれない気持ちはわかるからあまりトーンポリシングを強く主張するつもりはない。それをやりすぎるとセカンドレイプに成る。その危険性は常に留意しなければならない。だけど、この人当事者でも委任者でも支援者でもないでしょ。 ただの炎上大好き放火魔でしょ。いっちゃなんだけどこの記事も「曲解」がひどい。これわざとじゃないなら読解力が低すぎる。
また「我慢の限度を超えて」という主張も私は支持しない。その我慢が正当なものかどうかは他人からはわからないから。「不当な差別の蓄積」という主張ならわかる。客観的に検証ができる。だが、「本人が我慢をしたという自己申告」そのものに価値を求めようとするのは「冤罪」のおそれがある。「私は今まで我慢してきた!だから怒りを爆発させてもいいだろう!」というのであれば、暴走老人だってネトウヨだって、妻に愛想を尽かして浮気をした男だって「だって私はわたしなりに我慢してきたけど限度を越えたから」で肯定されることになる。 そういう「忍耐が足りない人」が最強に成る理屈は支持できない。*1
私は内田樹さんがまだまともだった頃に書いているこの記事が、ネットというか特にはてなでみかける騒動を考える際にとても大事だと思っていて。
「忍耐」貨幣を蓄財するにはどうすればよいのか。
いちばんオーソドックスなのは「不快なことを進んでやって、それに耐える」ことであるが、もうひとつ捷径がある。それは「生活の全場面で経験することについて、『私はこれを不快に思う』と自己申告すること」である。そうすれば、朝起きてから夜寝るまでのすべての人間的活動は「不快」であるがゆえに、「財貨」としてカウントされる。つまり、「むかつく」という言葉を連呼するたびに「ちゃりん」と百円玉が貯まるシステムである。
問題は、彼らの債権が社会的威信や敬意や愛情といったかたちでは決して戻ってこないことである。けれども、とりあえず彼らのまわりに彼らが存在することの不快に耐えている人間がいる限り、彼らは生きて行ける。不快と忍耐だけが通貨であるような世界での勤勉なる労働者たち。 逆説的な存在だ。しかし彼らの自己完結した世界において、これはたいへん合理的な存在仕方なのである。
今ってこの「不快」を表明してそのことに対して「社会的威信」を求める人多いと思う。これと「トーンポリシング許さない!」の主張が悪魔合体したら、感情が激しい人が好き勝手喚くばかりになってしまうのでやはりそういう意味でも否定したいところです。
「愛されたい」人と、「愛されていると感じたい」人は似てるようでぜんぜん違うかもしれない、という話 - 頭の上にミカンをのせる
自ら不幸になりにいってる人が「私は我慢に我慢を重ねてきました」とか言われても、「それはあなたが選択したことです」としか言いようがありません。特別保護する必要性を感じません。これは差別ではないはずですが、異論は認めます。
今求められているのはponakonさんのような質の悪い炎上屋・サンドバッグ調達屋ではなく(もうそのステージは過ぎている)、Allyさんとセラピストだと思う。
「LGBTを気持ち悪いと思う人の本音」に関して
これについてですが、まず、インタビューで本音を語っている人たちの主張は、今の基準で言えば「明確な差別」です。「ポリコレ棒で殴られるのが怖い」と被害者のように語っていますが、偏見と差別意識で殴られているLGBTの人たちに思いを寄せられておらず、「今だと差別にあたる」ということを頭で理解していながらも「子供の頃は当たり前だった」「今更言われてもしっくり来ない」「自分は差別をしていない」などの主張を繰り返し、偏見を変えようとはしていないので、まぁかなり根が深い差別意識が現れていると思います。
私は「本音至上主義」の人を軽蔑していますから、「本音だから」「これが人間の感情だから」は意味がありません。やはりこういう感情を持つことはもう矯正不可能かもしれないけれど、こういう感情を表に出したり、次世代に引き継ぐようなことがあってはならない、と語る必要はあると思います。
マルクスさんに関するBuzzfeedの時にも思いましたが、最近「本音を引き出すためには、メディアがインタビュー対象を批判せず、というかまともにインタビューすらせずにただそのままの言い分を載せる」という傾向が強くなってきているように思います。「ポリコレ棒」のようなネットスラングを当たり前のように使うインタビュー記事ってなんだよそれ
無批判にこういう人たちの本音を拡散するのはいかがなものかと思う。もうこれだったら彼らに直接原稿書いてもらえばいいじゃん。本音を引き出すためにも、ある程度厳しい質問もして、よりその人達の考えを掘り下げる必要上がるのではないでしょうか。これだと彼ら自身は「日頃溜まってた鬱屈した気持ちを吐き出してスッキリして帰った」だけであり、この問題についてなんにも考えが深まってないと思うのです。せっかくこういう本音をもった人たちが来てくれたのだから、その人達を否定しないように気をつけながらも逆にLGBTの人たちの気持ちを伝え、どういう風に考えるか、というリアクションなどを引き出してほしかった。
一方で、叩かれるのは覚悟の上で*2こうやって本音を語りに来た人を囲んでしばく、という行為もあんまり意味がないと思います。私が過去何度か引用した記事だが、もう一度読んで欲しい。
「悪いのは全て向こう側なのに何故わたしたちが歩み寄らなくてはならないのだ」。
それは悪いほうがより未熟だからだ。何も悪いことをしていない人間と悪いことをしてしまった人間がいた場合、後者の方がより未熟なのは誰の目にも明らかだ。他者と共同で物事を進めようとする時、相対的に未熟ではない人間が相対的に未熟な人間に歩み寄ってやらなくてはならない。これは「そうあるべきだ」という性質の話ではなく「どうやらそうしない限りうまくは進まないらしい」というどちらかと言えば物理法則に似たような話だ。
赦すということは何も加害者を咎めないということではない。ただ癇癪を起こすのではなく毅然とした態度で理知的な対話を行うということである。繰り返すにそれは決して簡単なことではない。誰にでもできることではない。容易に他人に求められることでもない。
pokonanさんの記事は、感情として否定はできないところである。別にこういう記事を書くなとは言わない。「こういう発言をするやつを許すな」「こういう発言を垂れ流しにするメディアを許すな」というのもれっきとした一つの選択だ。そうすれば少なくとも「現状を肯定するかのような論調の記事」は減らすことができる。
その上で「許す」ではなく「赦す」という選択が有るのではないかという話です。
こういうツッコミどころ満載の記事を怒りに任せてしばくのは簡単です。いっちゃなんだが誰でもできる。でもそれって、結局そういう本音を持った人に「やっぱりポリコレ棒の人は怖いな。黙っとくけどあいつらやっぱりクソだわ」って考える材料を与えるだけですね。わかりやすく「攻撃しなきゃ」「咎めなきゃ」「否定しなきゃ」ってそればっかり言ってても駄目なんじゃないの?これってある意味「甘やかしてる」と思うのです。
本来、この「赦すためにもまずは厳しく追求する」役目をBuzzfeedなどのメディアが果たすことが期待されていましたが、最近はご覧の有様なので、結局一つ一つやっていかなきゃならん感じですね。
私はトーンポリシングはかなりのケースにおいて肯定してます。以前くたびれはてこさんがナコルル騒動で暴れていた時に、その態度は明確に表明してます。
というか、トーンポリシング否定する人間って、その主張の妥当性や適用範囲をちゃんと検討したのか?してないよね。私はこの言葉を使う人は、ワインバーグの金槌の法則そのまんまで、その言葉知ったばかりの赤ん坊がとりあえず覚えたての言葉を節操なしに使ってるように見える。その言葉は数年以上前から知ってて検討したけど、少なくともネットにおいて、トーンポリシングを否定するのが妥当と思える状況はほとんどないってのが私の結論ですわ。
トーンポリシングするな!と喚いてるひとは、その語調だけが原因で批判されてるわけじゃなく、あんたらの言ってる内容が理にかなってないから受け入れられないってことくらいいい加減気づけよな。都合が悪いことを全部それに押し付けて逃げる態度はフェアじゃないわ。トーンポリシング以前の、まともに意見も述べられない人間がトーンポリシング反対を主張するのは甘えだよ。トーンポリシングが上流階級を利するっていう考え方を知らないわけじゃないよ。でもそれなら冷静にまともな批判してる人を支持するとかやり方あるでしょ。少なくともネットにおいてトーンポリシング反対の主張に妥当性があるとは思えないな私は。そもそも、私ははあちゅうさんに優しくしろなんて言ってないんだよ。抗議をやめろとも書いてない。むしろ厳しくしろって言ってんの。隙を見せるな、向こうの子供のふりをしてこっちをイラつかせる戦略に乗るな、トーン荒げるのははあちゅうさんを甘やかしてるって書いてるんですよ。
心配しなくても、多少語調が荒いくらいなら私はちゃんと意見聞くよ。「トーンポリシングのせいで、自分はまともなことを言ってるのに聞き入れられない」と主張するなら、どうぞ私のところに相談に来てください。当事者じゃない私が冷静な文章に翻訳してみますんで。
「じゃあどうしろっていうんだよその話をしろよ」ということで
この2冊の紹介を今度させていただこうと思ってます。
「ナイチンゲール」が主人公の話ですが、彼女が差別や虐待が横行する環境をどうやって変えていったのかを語ってます。
最近読んだ中でめちゃくちゃ良かったので、この問題に憤ってる人は是非読んで欲しいです。