頭の上にミカンをのせる

「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

最近のこのブログのお気に入りは「アークナイツ」です
アークナイツ
kindleセールの紹介
新NISA解説ブログ
発達障害

「ハーバードの講堂においてさえ、多数派は少数派を嘲笑する」という話

読みました。
この増田及び、この増田にはてブをつけてる人については3点言っておきたいことがあります。

・ちゃんと事実を確認して、事実に基づいて語りましょう
・「ゲイ・パニック・ディフェンス」はあまり有効な戦略ではない
・なぜ「アウティング」という言葉があるのか考えすらしないのはさすがに怠慢

ですね。

もちろん、一橋の生徒はちょっとうかつだったと私も思う。特にタイミングが悪かった。しかし、こんな頭の悪い増田に、筋違いな論理で嫌悪感むきだしにされるほど罪深いとは思わない。

事実に基づかず思い込みや藁人形論法でゲイを攻撃してるのがバレバレだと説得力がまるでない

1点目は、事実関係の認識が怪しいので、「どの情報をベースに語っているのか」を示してほしいということです。正直増田の意見の是非を判断する前に、増田の事実認識が怪しすぎて、話を聞く以前の問題です。
何を読んでこういう判断をしたのでしょうか。

・恋愛下手なゲイが、相手の気持ちや立場を思いやることなく一方的に気持ちを押し付けて相手が決定的な拒絶をする為にやむなくアウティングした事が引き金になって自殺をした

・破れかぶれの当たって砕けろと言う気持ちだったならば、拒絶されたら綺麗に身を引くべきだったろ。玉砕後もつきまとう行為は、ゲイである事を受け入れて当たり前と言う意思にしか見えない

この増田は、全く事実に基づいて発言していない。「一橋アウティング事件」について語っているふりをして藁人形を叩いてるだけ。この記事を思い出してしまいました。


と、いうわけで、本来であればそもそも前提となる事実の把握が間違っているので小論文なら0点です。増田は手遅れとしても、はてブコメントを書く人は最低でもWikipediaの全文およびこの2つの記事は読まれた上でコメントされるべきかと思います。

「ゲイだ」とばらされ苦悩の末の死 学生遺族が一橋大と同級生を提訴
この事件で何が問題になっているのか理解してから記事を書き始めてください。

一橋大学のやつだけど、
告白を断る←わかる
誰かに相談する←わかる
本人の前で2ヶ月後にLINEで言いふらす←???
大学が相談者に性同一性障害クリニックの受診を勧める←????
自殺したけど試験の時期だから黙殺←?????

https://twitter.com/Ichijo_Rei/status/761589236931829760

「ゲイ・パニック・ディフェンス」論法は、少なくとも当事者以外が主張すべきものではない

2点めは、増田の論理は昔からあるもので「ゲイ・パニック・ディフェンス」という名前をつけられています。「いいよられたらパニックになる」は良いとしても、それが「アウティング」の責任と相殺できるという主張は自明のものではありません。

裁判でこれらの行動の原因は「ゲイに口説かれたり、シャワールームでジロジロ見られたため」とする古典的なゲイ・パニック・ディフェンス(『ホモフォビックな暴力をふるったのは被告人がゲイに言い寄られてパニックし、心神喪失状態にあったから』として無罪を主張する戦略)を持ち出した

しかも、この事件は「告白されてから2ヶ月後」です。パニックを主張するにはちょっと厳しいですね。
とはいえ「秘密を強制されるのはつらい」というのはわかります。この点についてのみ語るのであれば多少は耳を傾ける気になったのですが、まぁ増田の書いてることはむちゃくちゃですね。

なぜ「アウティング」が問題になるのかを増田自らが示している。

3点目。<ゲイは特別ではない>という見出しで書かれている段について。
おそらくいいたいのは「ゲイだけが惚れた相手の気持ちを考えなくていいというのはおかしい」ということでしょう。事実認定がおかしいのはおいといて、この主張自体はわからないでもありません。しかしその割には同じ段落で「ゲイである事自体は、おかしなことではないけど。普通は異性愛者は受け入れない。そういう相手に告白したいなら、事前の準備を異性愛者同士以上にするのは当たり前だ」と書いています。いやいや。自分で書いててよく違和感感じないなと逆に感心する。

さらに、一橋アウティング事件の一見に納得できないことはまだ理解できるにしても、この表現は意味がわかりません。

一橋の子は既に死んでいるから、死人に鞭を打つようではあるけど、人間として、その卑怯さが俺には受け入れられない。だからゲイが大嫌いだし関わる事に嫌悪感を感じるんだと、そう理解した。

はい。

実はこれこそがセクシャルマイノリティに対して「アウティング」が許されない理由なのです。つまり「ゲイであるということがわかった瞬間、属性としてしか認識しなくなり一人の人間としてみなさなくなる」というこの増田のような反応が原因です。
この人は「ゲイは特別ではないのだから、ゲイのCOを晒すのだっていいだろ」ということが言いたかったようですが、その目論見とは逆に、まさに身をもって、アウティングの何がまずいかを示しています。


「性的少数派」は、そうと知られただけで多数派から「個人」として尊重されなくなるリスクがある

ここで出てくるのが記事タイトルです。

ハーバードの講堂においてさえ、多数派は少数派を嘲笑する。まじめな主張に対して、である。

大教室にたった2人しかいない少数派を問い詰める場合、個人の事情が派全体の事情へと拡大解釈されやすい。それゆえ、多数対少数の議論では、多数派は本来の議論そのものだけで戦うことができるのに対し、少数派は全人的に矛盾を追求されることになりやすい。もちろん少数派も同様の戦術を採用することはできるが、いくら個々人の矛盾を攻撃しても、「それは個人の矛盾である」と受け流され、議論の大勢に影響を与えることはできない。
形式的に多数派と少数派が平等に戦術メニューを与えられていても、現実の議論においては実質的に不平等が生じる。発言者の個人的な事情を持ち出して矛盾を指摘しようとする戦略は、多数派にとって一方的に有利な戦術なのだ。

わかりやすく言うと、「セクシャルマイノリティ」は、カムアウトした時点から「少数派」として多数派の暴力にさらされることになる。もっとはっきりいうと「迫害される」ことになる。

この感覚をしっていて、なお「ゲイは特別じゃない」とか「アウティングは問題ない」とか言う人はあんまりいないと思うし、増田はまぁそういう世界知らなくてよかったねおめでとうわかったから黙ってろあとついでにねこのうんこ踏め。ってかんじですかね。










































ここから自分語り。これは味わった人間じゃないとなかなかわからんよね。その立場になったことがない限り想像しろと言われても難しいと思うので、ちょっと違うが私の感覚を説明をします。私はLGBTではないが、私が小学生のころは「発達障害」はざっくり「知恵遅れ」とか「キチガイ」という認識だったようです。しかしそのころは私はまだガキだったから全然自分の発達障害がどういうことかなんか知らなかったし、親も教えてくれなかったし、深刻さがわからなかったから、うかつに友達にばらしてしまったんだよね。そしたら私が発達障害であることがバレた小2~小3にかけてはかなりいじめを受けることになった。うーん、いじめというかね。もうね、いきなり世界変わるよ。なんか転落人生って感じ。それまでは「よしき」という一人の名前のある存在として対等な存在としてみんなの仲間だったはずなのに、「そういうあだ名」を付けられてからかわれるようになるんだよね。いきなり自分の名前を奪われたような状態。今からすると、絶対に誰かの親が子供になんか吹き込んでてたんだろうと思うけど、こうやって自分自身ではなく「属性」によって個人を否定されるって経験は一度身をもって味わってみるといい。すごいよ。私が何をしても何を言っても馬鹿にされるからね。まぁ小4のときに、とあるきっかけがあっていじめっ子は転校して、私は私でまあそこから学校が嫌いになって塾通うようになり、小学5年くらいになってクラスで成績トップになったらいじめられなくなったけど。この時以降、私は中学でも高校でも大学でも、友達相手でさえ一度も自分が発達障害だということを誰かに告白したことない。小学校の時の同級生はだいたい憎んでて同窓会にはいったことない。当時の友達は塾が一緒だったやつだったけど、合格した学校が違ったから散り散りになってしまった。中学1年のときにすごい仲良い人がいたけど、この子も転校してしまって本当につらかった。この頃から私の絶賛コミュ障人生、絶賛友達少ない人生が始まってる感じ。
よく成人してから「発達障害」であることを知って「もっと小さい頃から知っていれば」って言う人いるけど、人によりけりだと思うよ。私は失敗だったと思う。大学入るくらいまでは知りたくなかった。自分は普通の人間で、ちょっと勉強が得意な人間だ、くらいの勘違いをしていたかった。この件に感しては親を恨むつもりはないけど、やり直せるというか別の分岐があったのなら、そっちの自分はどうだったのか知りたいという気持ちはある。「小説家になろう」で異世界転生ものでも書こうかな(涙)