今までゾーニングには限定的に賛成というか、必要ではあるよね、という立場でしたが、今後はゾーニング反対の立場を取ることにします。
反対というと語弊があるかな、保留です。あまりにゾーニングと言ってる人が、そのゾーニングそのものについて浅くしか考えておらず、無責任にこの言葉を連呼してるだけのケースが多すぎます。また事実を軽視して思い込みだけで批判してる人が多く、そのことを指摘しても確認すらせず開き直って人間ばかりだったため、これは安易に賛成してはいけないと判断を保留する立場に変わらざるを得ません。
この記事は情報収集・記録のメモなのでまだこれが主張だと言えるほどのものではないですが、暫定的にはこんな感じ。
よく考えずに「ゾーニング」すれば大丈夫という楽観的ゾーニング主義者がかなり多い。
どうやらゾーニングって言葉には「丘の向こうまで行けば平和に暮らせる土地がある」みたいな甘い響きがあるようだ。
— 新井輝📖光の戦士(仮) (@terurin9) 2018年9月14日
考えてみれば、ゾーニング自体は人任せだからな…ゾーニングするってことにすれば誰かがうまくやってくれるっていうだけの判断じゃん…これはヤバいことに気づいてしまったよ…。
ゾーニング。
— 新井輝📖光の戦士(仮) (@terurin9) 2018年9月15日
結局、こちらでうまい落とし所込みで提案しなければ、
「本屋さんの方で我々が納得するようにうまくやってください」
っていう図々しいお願いをなんかそれっぽく言ってるだけじゃん。お客さん側で使う言葉じゃないよ、これ。
しかもゾーニングのルールはエロいどうかにはならない。
— 新井輝📖光の戦士(仮) (@terurin9) 2018年9月15日
なぜなら、そういう恣意的な運用は許されないから。
露出度とかでパーセンテージで区分するとかならできるかもしれないけど、そうなればそれを守るだけだし、それとエロいかどうかは直結しない。
となれば、また誰かがエロいから隠さないといけないのではと提案。
— 新井輝📖光の戦士(仮) (@terurin9) 2018年9月15日
以下繰り返し。
結論 本屋さんが苦労するだけ
このお客さんが言う言葉じゃないよ、というのが大事。多分ゾーニングという言葉の意味を理解してないからこういう失礼なことが言えてしまう。
もっというと「ゾーニングしろ」という表現を使うことで、表現だけは妥協してるような感じだが、主張内容を見ると「規制しろ」としか言ってないことが結構多い。そういう人が「なんでゾーニングに反対するんだ?」って言うけど「言葉はともかく実態として規制しろって言ってるからだ。ちゃんとゾーニングの中身について検討しろ」って反論になるんですよね。これについては次の章で説明します。
というかゾーニングってどういう意味で使ってるか少なくとも自分は理解できてる?
「6 コンテンツの閲覧を年齢別に区分すること(主に成人向けコンテンツを区分することを目的とする。映画の成人指定、ゲームソフトのZ指定など。レイティングとも)」
この6番目の記述がネットでよく言われる「ゾーニング」になる。
①私が考えるゾーニングは「売る場所を分ける」がそれにあたる。
②「売る相手を身分証などで限定する」はレイティング。
③表現内容そのものに手を入れる(モザイク、黒塗り、そもそもそういう表現を用いない)は表現内容への干渉。私が主に反対しているのはこの最後の内容規制。
普通の人が考えるゾーニングは①だと思う。これについて成人指定だけでなく更に細かいレーティング(R15、R12などの指定を行う)ことも可能だが多分ゾーニングと連呼するだけの人はそこまで考えてない。
また、多様性に寛容な文化であり、情報の取捨選択は本人たちの責任だという成熟した考え方を持った文化であればだいたいの問題は①あるいは②で解決できる。逆に、パターナリズムが強かったり、保守性が非常に強く、そもそも表現内容そのものがどうあっても許容できぬという発想であれば、あらゆるものが③になったり、禁止されたりする。
何らかのレーティング、ゾーニングといった手法がとられるとき、考えるべきは実はコンテンツの表現の過激度というより、教育や倫理といった「社会の耐性」がどの程度あるかということです。この耐性(あるいは耐性への信頼)が低くなるほど、レーティングやゾーニングといった方法を、やむない次善策、現実解として受け入れる必要が出てきます。
で、今までは文化的成熟度が高かったのか、単に放置気味だっただけはわからないが、①や②でだいたいのことは解決が図られていた。一時期の焚書事件の反省などもあったとは思いたい。ところが、最近の「性的消費概念(性的モノ化概念と同じ筋立てなのに結論だけ違うパチモンの概念)」みたいなアクロバティックな理論を見ると、明らかに③の方向へ進んできている。コンテンツの性質自体に踏み込んでいる議論は、①や②では許さないと言ってる。つまり実質的に求めているのは「規制」ということになる。
「過激すぎる表紙のラノベを置く場所を考えろ」は快不快の問題ではないと何度言ったらわかるのか : 九段新報
例えばこのブログで書いてる内容について主張を組むのであれば、その解決策が①や②ですむわけがなく、③に及ぶことになる。
実際には、明確に問題を規定しないまま形だけのゾーニングを行うことは問題を解決できず先送りするだけであり、先送りのあとはより悪影響が出る
のnatsukusaさんのコメントを引用します。(強調部分は私です)
誠実にあろうとしてるのはわかるから誠実にいうけど、ゾーニングは筆者が思ってるほど穏当な手段じゃない。世間に対するポーズとして生じた腐女子の自重文化は、キツイ相互監視社会で器用に立ち回れない人からまず潰れてく土壌を生んだよ。世間に大半の人が眉をひそめるか直視を避けるような過激なもの、不道徳なものは、みんなの目に触れないとこで楽しんだからといって、不道徳だと感じた人の気持ちは消えない。そこにゾーニング概念を持ち出せば「お前たちがこの世から消えてなくなるまで」永遠に追い詰められる。それは地獄だよ。「その作品やそれを楽しむだれかの心理やその問題性」は隠したからといって消えないし、度を越せば暴かれなきゃいけない。その極端なものがスナッフビデオや児童ポルノだよ。制作時に必ず実在の被害者がいるからね。そういうものは隠したからといって何かが免れるわけないし、免れてはいけない。もちろん架空の世界の架空の人物を描いた創作を、児童ポルノやスナッフビデオと同等に並べることはできない。でも、描かれているモチーフとそのモチーフが現実に置かれている立場が重なって問題性を孕むことはある。今は女性の問題だね。それらもまた本質的には隠したところでどうにかなるもないんだ。10年ほど前にレイプレイという過激なアダルトゲームが海外の人権団体から批判されたことがあったんだよ。日本では流通してたが、海外には元々出荷停止されてて正規ルートじゃ手に入らなかった。でも何かの機会に団体が見つけて俎上にあげて大騒動になった。隠したところで問題の本質が消えない例だよね。女性や性にまつわる不均衡もまた、免れきれない大きな問題で、一振りで解決はできない。それを「見えなければいいんでしょう」と考えてしまうのは、問題視する人にとっても、でもその表層に愛着や愛好を見ている人にとっても、長期的には悪い向きにしかならんというのは覚えておいてほしい。
*2ゾーニングは一時的な休戦条約とか相互不可侵条約でしかなく、問題を解決しない。次の戦争の準備期間を用意するだけ。というか現状で全くゾーニングされていないという認識はそもそも間違っている。ゾーニングはすでにかなりの程度されていると言える。これに反論したければ「10年連載されていて最初から目立つ表紙だった「境界線上のホライゾン」のラノベの表紙が、わざわざシュナムル氏が火をつけるまで話題にならなかったこと」について合理的な説明が必要だ。特に今回の件ではじめて境界線上のホライゾンという作品を知った人たちが「ゾーニングされてない」と主張するのは滑稽以外の何物でもない。 じゃあなんであんたら今までこの作品のこと知らなかったの?
ゾーニングをすると特定の属性が固まるから目立つという副作用がある
当たり前だがゾーニングすればそういう属性のものをわざわざ束ねてる行為なので余計に目立つようになる。というか、ゾーニングとは法的にはまさにこの、他と区別できるようにするのが目的なのだ。区分配置のことをゾーニングという。
よく問題視されるコンビニのエロ本が目立つという話だが、あれはゾーニングの要求に答えた結果ああなったのだという経緯がある。
エロ本コーナー以外のところにおいて、エロ本と知らずに手に取ることを防ぐのが目的であり。見せないようにすることは義務ではない。(有害指定図書指定されたものは除く。こちらは敷居がないとだめ)実際に敷居も何もないでしょ?
エロ本の表紙を見えないようにすることは、あくまで書店側の配慮なのだ。ゾーニングしろというだけなら、区分されたものについて見えてるじゃないかと文句を言う資格はない。
別にコンビニで男向けのエロ本をゾーニングしろという意見に反対するつもりはないが、その副作用としてよりそのコーナーが目立つようになる、というのは最初から了解しておくべきだ。結果としてゾーニングに応じた結果、より目立ったとしてたたいている人は、そもそも自分の勘違いを恥じるべきだ。
※ただ、コンビニ問題については批判した側を責めるつもりはない。安易にゾーニングで対応しようとした側に問題があったと言える。
繰り返しになるがゾーニングされたあとは見えないように気を使ったり子供の目に届かないようにするのは客側の問題であり、表紙の内容を変えろとか絶対に見えないようにしろというのはただの検閲や悪書排斥運動と同じ。それをゾーニングという言葉で表わすのは間違いだ。
ゾーニングは区分配置だけすればよく、それ以上の義務はないのに、見えにくいように配慮してくれてる書店があったら普通に感謝してその店を応援すれば良い。それだけのことだ。
書店員の人がどれだけ配慮してもそれを台無しにする人たちが一番悪い
大事なことは、さらなるゾーニングをしていても、シュナムルさんのようなに、過去の経緯なんか知らずにわざわざ晒そうとする人がいる限り、「レイプレイ」のような形でいつか必ず火をつけられるということだし、そのときはゾーニングしたことによってより叩きたい人が叩きやすい状態を作ってしまうということだ。
火をつける人をきっかけに、「現状を確かめもせずにさらなるゾーニングを求める人たちがやまほどいる」のも今回の件で明らかにされた。
つまり、「ゾーニング」について考える場合、それを求める側も受ける側も、まずそもそも問題が①「置き場所を変える」②「R15、R18などのレイティングを行う」で対応が可能なのかを考える必要がある。問題のレベルをちゃんと考えなければいけない。
問題点をしっかり両者で共有しない、相互コミュニケーション不在の安易なゾーニングは、コンテンツを批判する人も、それに応じる側も、どちらも幸せにしないというのはそういうことである。
そもそも、ゾーニングを主張する人たちの「法律や現状における無知・無理解」が耐え難いレベルでひどい。いい加減いみのわからん独自理論を生み出すのをやめろ
こうした諸々の勘違いが完全な形で結晶化したのが「汐街コナ」さんの記事だった。
ラノベの表紙エロすぎ問題について|汐街コナ|note
一行でまとめると、コンテンツの性質自体が③=規制の対象であると主張しながら、ゾーニングすれば問題解決できると書いてしまった。
「お前らのコンテンツはゾーニングなんてしても無駄な規制対象だ」「でもゾーニングすれば問題解決できる」という矛盾する論理を主張されてしまったら、こちらとしては同意したくてもできへんやん?
そして、この矛盾したメッセージに同意している人が結構いた。つまりこれは、このレベルで勘違いをしている、あるいはゾーニングの中身なんてまともに考えてないことが可視化されたということだ。ただ「ゾーニングすれば良い」という結論があって、それを正当化するそれっぽい理屈があればそれでいい状態ということになる。
・なんで表現の自由の基準が俺様基準なんだよ。日本国憲法すら理解してないじゃないか。
・ではその『基準』は誰が決めるのか」「ゾーニングはどこまでそれがされるのか」ということが思考外になっている人が多い
・抑圧だ性的消費だなんかが理由だったら棚を分けるゾーニングであの連中が納得するわけないじゃない。・独自説を語りたいなら、法律から切り離した話としてやればよい。各方面の学説判例の蓄積があるところに、ぼくがおもいついたさいきょうの独自説をブチ込んで、意味があると思ってるんだろうか。不可解だ。
たとえば今までにあった愉快な独自理論はこんな感じ。
・「まなざし」批判 → 言葉自体は広がったが、内心に踏み込んだ無理筋理論だったので主張内容のほうがネタとして消費され、むしろ「無能な味方」の役割を果たす。
・「性差別を助長する」理論 →根拠に乏しいとして最近廃れがち。
・最近の流行りの「性的搾取」とか「性的抑圧」 →男性のみに適用する合理的根拠が無いため間もなく廃れる予定。
基本的にどれも「素人が判例の蓄積などの敬意を払わずに自分の頭で考えた」結果、バカの見本市になっている。これらの「一見わかりやすいが批判に耐えられない中身すっかすか理論」は相手にしなければそのうち勝手に廃れることが実証されつつある。こういう独自理論を述べている人たちが「じぶんこそが世論だ」と勘違いしている様は滑稽でこれまた叩きやすいのだけれど、これはこれでセレクティブエネミーだろうとは思う。つまり、これを攻撃したら逆にセレクティブエネミーにされるという疑似餌。つまりこれらの独自理論を唱える人たちは、「使い捨ての鉄砲玉」のようなやつであって非常に厄介。そういう鉄砲玉に志願する人が弾切れになるまで放置するしかないのかもしれない。
まーとにかく何が言いたいかというと。
同意しようとしてもできない、素人考えてのむちゃくちゃな論理をつきつけておいて、「なんでゾーニングに賛成しないんだ?」と言われても「いや、それ無理なんですけど」としか答えられないってことです。
最大の問題は、ゾーニングを求める人達が、「ゾーニングの基準や程度を決める権利は自分たちが所持している」という致命的な勘違いをしていること
当たり前ですが、ゾーニングの基準や程度を決める基準は「行政」にあります。あるいはそれを意識した業界の自主規制です。ゾーニング推進してる人たちは「ゾーニングの力学が自分の都合のいい方向にしか働かない」と考えているわけです。ところが実際には、自分たちが基準の決定に直接関与することすらできない、ということすら理解してません。そのくらい楽観的なんですね。
今回の件でいうと「よー清水」さんというすごく有名な絵師さんがいます。この人以前にエロい絵など全く書いておらず「風景画」しか書いてなかったのに、いきなりtwitterの凍結を食らっていました。twitterの恣意的な運用で、全く問題のないはずの絵を描いていてもいきなり凍結されることがありうることを知ってるはずなんですね。実際に「行政が何かをゾーニング」し始める時、話の詰め方が甘いければ、twitter社のような運用だってできてしまうわけです。にもかかわらず、ゾーニングの議論では自分には関係ないと思っていらっしゃる。自分がまた同じ被害にあうかもしれないという想定がない。
なんとも楽観的なことだと思います。 とにかくこんな感じでゾーニング論の真剣味のなさ、楽観的すぎる想定、勘違いした権力意識など、いろんなところがずさんすぎて、ちょっともう信じられない。
私がゾーニングに賛成できない理由=ゾーニングとはどういうことかすら理解できてない人がゾーニングを主張しているから
ゾーニング自体は問題を解決するわけでもない割にかなり影響が大きい手法であり、安易な発動はためらわれるというのに、ゾーニングを主張する人たちの思慮があまりに浅く、あまりに楽観的である状況で、どうして信頼してゾーニングの話を受け入れられるものかとは思いますね。
ゾーニングの根拠や基準がが①や②で対処できる形で収まるまで、つまりこういう服装のものはレーティングつけて別の棚に置くようにしましょう、みたいな話に落ち着くまでは無理。
というか、ネットで変な理屈を述べてる人以外は、だいたいえっちなのはいけないと思います、くらいの話をしていると思っていて、誰もそれに反対してないです。
合理的な論拠を持って、こういうレベルでゾーニングをしましょうということで合意ができそうだと感じられるなら、ゾーニングという結論は否定してない。というか今までは消極支持だったしね。
しかし今回の件でゾーニング推進者への信頼がなくなりました。かなりの程度ゾーニングされている現状を無視して、全くゾーニングされてないと言い出す人や、素人による学術的論拠がないトンデモ独自理論や、平気で内面へレッテルを貼り、自分が貼ったレッテルを根拠に合理化しようとする詭弁などが多く、それに違和感を感じていないひとたちの声が強すぎる。(具体例を出せという人は少年ブレンダ、などで検索してみてください)
こういう過激な人たちの声を抑え、客観的に共有できる基準まて調整しましょう。*3
参考記事
具体的な基準についての考察がされているので参考になると思いますお読みください。
とりあえず、私も圧倒的に勉強不足なので、この2冊を読み終わるまでは黙っておきます
以上、相手の誤りは指摘しましたが、ここで終わったら「あいつら馬鹿だから話聞かねえ」といってるだけであまり建設的ではありません。
とはいえ、「こちらからあるべきゾーニングを提案する(自主規制に近いが、批判している人たちにもこの基準でOKと納得させる)」ためにはわたしの知識が足りません。
相手がどれだけ馬鹿で、自分がそれよりマシだとしても、これだけではあんまり意味がない。最初から我関せずしてる人と変わらない。というわけで、このあたりの本を読んでみようと思います。
マンガはなぜ規制されるのか - 「有害」をめぐる半世紀の攻防 (平凡社新書) | ||||
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性表現規制の文化史 | ||||
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*1:ところが、この記事の書き手は決策をどうするかについては全く言及がなく、その点についてブックマークコメントなどで指摘されているのに答えられてない。それどころか、その後に投稿された記事を読むと、勇ましく主張していた「性的搾取」の論理をかなり後退させている。「ゾーニングは快不快の問題ではない」ということの理解のされなさ、理解させることの難しさ : 九段新報多分ろくに考えずに「僕の考えた独自理論」を語っただけで、そのあたりをろくに考えていなかったのだろうと思います。考えが足りてない
*2:鬼畜王ランスにおいて、ワーグがルドラサウムを眠らせるみたいな効果しかないってことやな。 シュナムルみたいな人が現れてルドラサウム(親の皆様)の目を覚まさせたり挑発したら一発でゲームオーバー。
*3:いや本当に九段新報の「性的消費」の記事とか、三年前が指摘されてる「定義が不完全」という話に全く対応できてないし、今頃あの話を信じてるのって明らかに議論のアップデートが止まっているし、あれに同意してる人本当に頭大丈夫ですか?