本当は自分自身の感想書きたいのですが
自分自身が読み返す時間を確保したいため引用でお茶を濁すなど
人間とは何であるか
この初版本を私に渡すとき、彼はこう云った。
http://qzmp.seesaa.net/article/74339338.html
「龍丸、とうとう俺は、世界一の長編探偵小説を書くことができた。おそらく、世界の傑作となるだろう」
私はたしか、丸二日間、この本に没頭した。三回くらいは読み返したろう。
「お父さま、判ったよ。初めのブーンから終わりのブーンまで自分という人間が何であるかということを書いたもんじゃろう。二重、三重、いろいろのものにとらわれている人間というもの、人間の意識、そのとらわれているものを除いての人間とは何か、が書いてあるとじゃろう」
こう云うと、夢野久作は
「なんや、おまえも判ったか?」
と、がっかりしている。
「お父さま、それでも、この阿呆陀羅経は長すぎるよ」
と云うと、母が、
「お父さまの小説は、一般の読者が泣いたり笑ったりするものでない、理屈の多かっちゃん」
と云うのを聞いて、閉口したような顔で立っていた父の姿が、今も眼に残っている。
アンポンタン・ポカンくんを中心に読む
胎児に未来の犯罪設計を植えつけることが可能であろうと考えたのである。かくて正木はその計画を実行に移し、胎児が20年後に犯す犯罪を心待ちにする。その胎児は呉一郎として育ち、案の定、犯罪を重ねる。そうなれば、正木は狂人の解放治療法すら獲得できるのではないかと妄想をした。獲得が無意識の中に閉じこめている記憶を解放させる方法がそこから生まれると予想したからだった。
http://1000ya.isis.ne.jp/0400.html
正木の治療法がポカン君にも適用され、ポカン君は呉一郎の家系記録や犯罪記録を次々に読まされ、さらにはその犯罪の謎を解き明かした正木の推理を読まされて、ポカン君がいったい誰が何を書いていて、それを読んでいる自分のことまでそこに書かれているのかということと、それを読んでいる自分がいるのかどうかさえわからなくなっていくという、そういう仕掛け
心理遺伝と「胎児の夢」と「ヘッケルの反復説」
呉青秀が呉一郎に重なってくるのも、ヘッケルの反復説が詳しく紹介されるのも、結局はすべてが「胎児の夢」かもしれぬことが示唆されるのも、同じことなのである。
http://blogs.yahoo.co.jp/nietzsche_rimbaud/31939196.html
略
私自身はこの小説をまず時間学として読んだ。略。久作自身が時計を不思議なもの、奇妙なものと、見なしていたのではないだろうか。
カリガリ博士
http://www.kirikoclub.jp/book/dogura/dogurama-frame.html
「ガリガリ博士」とはドイツ映画「カリガリ博士」のことだ。ある町にカリガリ博士という催眠術師が見世物小屋を開く。出し物は催眠状態で予言をする眠り男。眠り男はある観客に「今夜死ぬ」と言い、その通りになる。不審を抱いた若者が博士の正体を追及すると、実は精神病院の院長だった。眠り男はその患者で院長に操られて殺人を繰り返していたのだった。追及した若者は院長の手で患者として病院に監禁され、映画は終わる。映画を見た久作は、間もなく「ドグラ・マグラ」に着手している。なぜ久作はこの映画に触発されたのか。そこには、時代の不安という背景があったのではないだろうか。
http://d.hatena.ne.jp/teriri/20110307/1299474816
この頃(1919年)にもう「ドグラ・マグラ」(原作発表は1935年)みたいな構造の作品があったんだな。」とゆー発見で興味深かったです。作品の骨子は同じだよね。博士と、狂人と、どちらの認識が事実でどちらの世界が真実この世界だったのか、とゆー。
で、「ドグラ・マグラ カリガリ博士」で検索してみたら、なんだ、夢野久作はこれを見てドグラ・マグラを書き始めたらしき事が載っていて、「なんだ、もろに影響下の作品だったのだな」と納得。そうだよねー、ここまで本筋が共通してるならねー