こういうよた話大好き♥
「毎日毎日、“僕ら”は鉄板の上で焼かれて、イヤになっちゃうよ」
この部分、「イヤになっちゃっう」のは“タイヤキ君”という特定個人ですけれど。
「毎日焼かれている」のは彼じゃないですよね。だって、焼かれたタイヤキは、お店で売られて、誰かに食べられるんだから。
— やむらあきほ (@jam_A_qui) 2014, 11月 19
つまり、この“イヤになっちゃってるタイヤキ君”は、「これまで毎日毎日、ただ焼かれて、売られて、食べられていった同胞たち」、そして、「近い将来、それと同じ道を歩むであろう自分」、「タイヤキという種のさだめ」について憤っているんだと思うわけです。
— やむらあきほ (@jam_A_qui) 2014, 11月 19
「自分もそれと同じ運命をたどるしかないのか? そんなつまらないことをするために生まれてきたのか?」
そういった苦悶の末、己のレゾンデートルを“魚の形をした身体”に見出し、海に飛び込むことに決めたのです。
その体が、タイヤキ屋のオヤジから与えられたものであることも忘れて。
— やむらあきほ (@jam_A_qui) 2014, 11月 19
「自分もそれと同じ運命をたどるしかないのか? そんなつまらないことをするために生まれてきたのか?」
そういった苦悶の末、己のレゾンデートルを“魚の形をした身体”に見出し、海に飛び込むことに決めたのです。
その体が、タイヤキ屋のオヤジから与えられたものであることも忘れて。
— やむらあきほ (@jam_A_qui) 2014, 11月 19
彼の体は「ただ焼かれ、売られ、食われる」ことに最適化された小麦粉の練り物。そうやって作られた。それ以外に使い道なんてあるわけがない。
結果、彼は魚になりきることもできず、哀れな末路をたどることになるわけですが。
— やむらあきほ (@jam_A_qui) 2014, 11月 19
しかし、だからといって彼の人生がくだらないものだったと断じてしまっても良いものでしょうか?
一瞬とはいえ、彼はタイヤキという緋文字を脱ぎ捨てて、大海を自分の思ったように泳ぎまわる“魚”という時間を過ごした。自分の可能性を試すことができたのです。
— やむらあきほ (@jam_A_qui) 2014, 11月 19
それは、僕達人間の目からすれば瑣末な出来事なのかもしれません。ただ、彼にとってはかけがえのない時間であったのかもしれない。
そんな曲です。
お聞きください。子門真人で、『およげ!たいやきくん』。
— やむらあきほ (@jam_A_qui) 2014, 11月 19
泳げたいやきくんの歌詞のあらゆる矛盾は胡蝶の夢的な解釈で解決できると思うんですよ。たいやきは自分と同じ姿で海の中を泳ぐ魚を観て、自分が海の中を泳ぐ夢を見ると。しかし、たいやきは気がつくとおじさんに食べられていると。
— 菅井翔太朗 (@utarou) 2014, 11月 19
余談として「緋文字」について。
以前に小説を読んでみたことあるけど、超眠たかった。
その時はもうほんとに全然おもしろくなかった。
シナリオ自体はめっちゃシンプルで、あらすじは2行で説明できる。
なのだけれど、その作品で結局作者が何を表現したかったのかが、最後まで読んでもよくわからなかった。
いや、作者が何を表現したかったかなんか関係なく、自分がこの作品から何も引き出すことが出来なかった。
訳文のせいかもしれないけど地の文の語り口調が大仰で、
それでいて登場人物の心情とかはあんまり伝わってこなかった。
誰一人、この作品に自分がこの作品に入り込むためのとっかかりとなる人物がいなかった。
それでいて、ただただ陰鬱な雰囲気だけがただよっていて、もう読んでてとにかくシンドイ。
実に陰気な物語で、背景の影よりも暗いただ一点の光が絶えず燃えているのでやっと救われているに過ぎなかった
- 「暗い色の紋地に、赤い文字A」
解説を読むと一つ一つの会話にちゃんと意味があって、
作者やピューリタンなどの背景知識がひつようがあって、
緋文字のAの意味も、ヒロインであるヘスターの感情も作品中でどんどん変わっていって。
そういうことを一つ一つ理解しながら読むととても重要な作品なのかもしれないけれど。
原作の「フランケンシュタイン」もたいがいだったけど、
この作品も読むのしんどいだけでなにがなにやら、という感じだった。
アーサー・ミラーの「るつぼ」なんかはすごい面白かったんだけどな。
ただまぁ、なんか最近のアンビリーバブルなんとかさんをめぐる騒動とか見ていて、
なんか今読んでみればちょっと楽しめるかも?とか思った。
「はてな」=今後魔女狩りを行うことになろうであろうえせピューリタニズムと
緋文字をつけ晒し台に進んでたつ女性、不倫になりそでならなかった男とチリングワース。
とか。
…あかん。はてな村はなにをやらせてもgdgdすぎる。
はてな「村」にはパール(話を引き継ぎ次の世代を担う人間)の存在が感じられない。
そう考えるとこの話のあとに魔女狩りという暗黒時代を控えているはずの作品中の舞台以上に
はてな「村」の先行きは暗いよなーと。まぁ別のはてなが生きるからいいのか。
ところで今解説を読み直してみると
アメリカ人が大好きな「勤勉と富のピューリタニズム」ばかりが喧伝されすぎてきた。しかし初期ピューリタニズムには、そもそも栄光と残酷とが、神権と抑圧とが、ユートピアニズムとテロリズムとが表裏一体になっていた。
(中略)
1636年には「反律法主義論争」と知られるピューリタン・イデオロギーによる異分子放逐運動が始まっていた。アン・ハチソンという女性が「救済のための信仰」をあまりに重視したため、これを牧師ジョン・コットンが糾弾し、彼女をマサチューセッツからロードアイランドに放逐した
(中略)
ホーソーンは、ヘスターに宿る「救済のための信仰」を描きたかった
今のはてな村でいえば「承認欲求が暴走したやつを村八分にする」みたいな感じかな。
とりあえず、今更だけど、物語の中心であると思っていた不義密通そのものはそれほど重要じゃなくて、とにかく「ヒロインをいじめていじめていじめぬくことで、今の社会(信仰)に適応できぬ人間が、独自の信仰に目覚める(魔女化する)みたいなあたりがテーマなんだとしたら、結構面白い作品なのかもしれない。
この作品では結局ヒロインの魔女化は達成されないし、実際魔女化したとしてもそれを解決する方法は火炙りの刑しかなかっただろう。暗い時代に人々がどんな風に考えて何にすがって生きているのか、どう人に接するのとかそんな感じのことを考えながら読めば楽しめるかも。