「ちょっといい話」としてのイジメ (4ページ目):日経ビジネスオンライン
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この人たちは、いじめる側の子供たちが、明るく開放的な気持ちでいじめている限りにおいてそれは「陰湿ないじめ」ではない、というふうに考えているようですね。 http://t.co/yWe7lEXCSB
— 小田嶋隆 (@tako_ashi) 2015, 8月 5
いじめは、いじめる側の人間にとっては、ストレスの発散であり絆の確認であり娯楽だ。さらにはユーモアの表現でもあれば創造性の発露ですらある。決して「陰湿」な行為ではない。動機において陰湿ないじめはむしろ珍しい。そういう意味で「陰湿ないじめはダメ」という言い方は歯止めにならない。
— 小田嶋隆 (@tako_ashi) 2015, 8月 5
個人に対する集団の優越ないしは少数者に対する多数者の優越を端的に模式化したゲームである「いじめ」が蔓延する学校という空間の中で、常にいじめる側に立つことのできる能力がおそらく政治力と呼ばれているものの正体なわけで、だとすれば、政治家がいじめを自慢するのは当然のなりゆきですね。
— 小田嶋隆 (@tako_ashi) 2015, 8月 5
まるっきり「武勇伝」の文脈である。ご本人に罪の意識は無い。 むしろ、「男の子なら、これぐらい元気があって当然だよね」と、共感を求める気分が横溢している。ごらんのとおり、「いじめ」は、加害者にとっては「武勇伝」であり「良き思い出」なのであって、多少は反省しているにしても「やんちゃなオレ少年の腕白脱線エピソード(テヘペロ)」ぐらいの路線から外に出ることは無い。
当然のことながら、いじめ告白を開陳している彼らは、「いじめた子供」である自分たちの方が「いじめられていた子供」である無名の脇役(誰だっけ? ぐらいにしか思っていない)より、はるかに優秀で、友だちが多くて、強くて、要領が良くて、魅力的であることを疑っていない。だから、いじめられたことは「恥」でも、いじめたことは「恥」だとは思っていない。むしろ、「勲章」ぐらいに思っている。だって、いじめる側に回っているってことは、スクールカースト上位者だったということの証明であって、すなわちそれは、社会的強者ってことだろ?……と、そういう意識の人たちが、教育行政にたずさわり、いじめ対策を考え、教育現場に口出しをしている
この話を見て、「聲の形」の読み切りが話題になった時のことを思い出した。
この作品は自分にとっては「いじめを行いながらいじめを問題と思っていない人間の心理」を正面から描いていた点が自分には衝撃的だった。
俺が一番知りたいことはどうすれば退屈でなくなるかだ。そして俺はその退屈に毎日わずかに勝利してきた。
http://www.manganimedia.com/%E8%81%B2%E3%81%AE%E5%BD%A2/
将也は悟った。西宮硝子は俺のクラスに実害をもたらす邪魔者だと。そのことを西宮は気づいているのだろうか。自分が邪魔者であることをわからせてあげなければならないと、黒板にひどいことを書き綴った。それを見た硝子は怒るでもなく、にっこりと笑い、ありがとうとノートに書いてみせた。その反応を見た将也はますます硝子に興味が沸き、いじめはエスカレートしていった。どこまで彼女は我慢するのか。このまま続けたら西宮はどうなるのだろうか。西宮をいじめるとクラスは笑う。先生までも笑った。コレだ。コレが西宮の正しい使い方なんだと将也は思った。
硝子をいじめればいじめるほどクラスメートは笑ってくれる。何度も補聴器を奪っては破壊し、いじめたおした。なんという充実感。将也は満足感すら覚えていた。
自分にとっては「聲の形」ってのは1話がほとんどすべて。
2話以降は「取り返しの付かない罪を犯し、それを受け止めることになった人間は、その後どう生きることができるか」というお話だけどこれについては、「聲の形」を名作だと思うなら絶対に「聖☆高校生」も一緒に読んで欲しい。
前も挑戦したけど、この作品の感想はブログでは書けないわ。
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