前の記事からの続き。
「功利主義」という語に限らず、「語感」だけで勝手に意味を推測して考える人多すぎると思う。「論拠」という言葉について意味や目的をわからずに使ってる人もいたし、「自己肯定感」という言葉をテーマについて語ってるのにその言葉の意味を考えずに、なんとなくいいものであるというふわっとした理解で話を進めてる。しかも、そういうふわっとした理解しかないなと思う人に限って、なぜか断言的な口調であることが多い気がする。私は、そういうのってすごく危ういと思う。
①よくわからん単語や話題について
②語感だけで勝手に自己解釈してわかったつもりになって
③その自己解釈でとんちんかんな論を張って
④そのおかしな論につっこまれたら真意システム発動。
私もやってしまったことがあるけれど、いったんこれに気づくと、いったい私は何をやってるんだ、という気持ちになります。でも「自分がこの話題には不案内だ」って自覚をちゃんと持ってないと、なかなか気づかなかったりするのでとても怖い。
「興味はあるけどよくわからない」という気持ちは命綱だと思って大事にしたい
わからないことが悪いというわけじゃなくて、私だって功利主義がなんぞや、ってのはわからないんだけどわからないならせめて「この単語の意味よくわからんな」という自覚は持っておきたいということです。
大げさに言うなら、まさにこの気持ちこそが、ネットにおける命綱だとすら思う。その「わからない部分があった」という認識さえあれば、いざというときに「殺せ」みたいな過激なことを言いそうになった時の自分のブレーキになるし、「自分の心」と周りの反応が違ったときに、「バッファ(緩衝器、猶予)」になる。やばいと思ったときにブレーキが踏めたり、緩衝器さえ用意されていれば、事故死しにくい。
「わからない」ところがあるのに、そこで逆にアクセル踏み込むような真似をするからしんじゃうわけです。
今回の長谷川さんにしたって
①自分がよくわかってない透析患者というものについて
②中途半端な聞きかじりで、推量してわかったつもりになって
③その「わかったつもり」のままで過激な論を張って
④そのおかしな論につっこまれたら真意システム発動。
になってるわけじゃないですか。これは明らかにブレーキ壊れてますし、全くバッファがなかった状態です。
「わからない」ところがあるなら、それをちゃんと自覚して、強い言葉を使わない。発言内容や発言にゆとりを持たせる。よくわからないものに、強い言葉、断言口調で論陣を張るってのは、全財産や信用を全力二階建てするようなもので、こんなことを繰り返してたらそりゃ死んで当たり前です。ただのジャンキーです。リスクというものを全く考慮してないにもほどがあります。
「負け」や「無知」が認められないなら、なおさら知らない話題について言及しないこと
ネットで「アフィ」「営業」などで、物や自分を売るようなことをやってて自分が専門家だとブランディングしたい人は、「わからない」ふりをしにくいのかもしれません。「このことについてはなんでもわかってますよ」って顔をする必要があるのかもしれない。だったら、それ以外の話題に口出さなきゃいいだけです。
十分に理解できてないけど、何か意見を言いたい、というときにはその認識を大事にしたうえで慎重に発言すればいいだけだと思うわけです。
この手の話をすると「よくわからない話題だけどとにかく議論喚起したかった」「議論になったから自分の記事は価値があった」ということを言う人がいます。
うんあのね。あなたがそんなことしなくても、その話題についてまじめに議論してる人いる。あなたがそれを認識できてないだけ。だから、あなたがそれをやる必要はない。議論を活発にしたいとは思っても、それをあなたにやってほしいとは誰も思ってないし、はっきり言って迷惑。質の悪い問題提起が引き起こすのは、議論じゃなくて罵詈雑言の応酬でしかない。じゃあ、やらないほうがいいです。
さっきと一緒で「自分はそんなにわかってない」って自覚があれば慎重になれると思う。一度立ち止まって「そこまで考えてもなおやりたいか」「自分がやるべきだとおもうものか」を考える時間ができると思う。それでYESと思えるものだけやればいいのかな、と。
「世の中に 人の来るこそ うるさけれ とはいふものの お前ではなし」 大田蜀山人
「世の中に 人の来るこそ うれしけれ とはいふものの お前ではなし」 内田百閒.
議論を喚起する立場になりたいなら、まずしっかり勉強して準備すればいい。その準備が整うまでは、目立つ必要はないから、わからないなりに、わかる範囲から少しずつ意見を積んでいったらいいと思う。
ブログって、そういう「積み重ね」ができるところが最大の強みだと思ってます。目立たないところでの積み重ね大事よほんとに。 今までそんな話全くしてなかったのに、単体でいきなり過激なことを言う人は「いっちょかみのバカかな?」ってまず疑う思うもん。
あることを腰を据えてじっくり学び始めると、しっかりした知識を獲得し、余程の自信を得られるまでは、自分の意見を発表しようとは思いません。そのテーマについて、先人たちがどのように思考してきたのか、よく咀嚼したうえで、自分の立ち位置を見つけなければならないのです。「専門家」とは、入力と出力のあいだに時間差を保てる人のことを言います。この時間差の広がりを「体系」というのです。逆に、その時間差がない人のことを、世間では「バカ」と読んでいます。
私はせっかちなので、なかなか専門家になるのを待ってはいられない。それで、自分が「バカ」側なのはわかってても、それでも意見を書きたい。でも、その時に自分が「バカ」である自覚は持っておきたいと思う。今はまだ「バカ」なんだから、プライドもたずに素直に、しったかぶりせずに、悩みや葛藤もそのまま込で、ここまで考えました、ってのを積み重ねていけたらいいなと思います。これがなかなか難しいのだけれど……。
私は、頼りなさげな文体で、切れ味も悪いけどごまかしがない文章、が好きです
それゆえに「自分がわかるところ」を足掛かりにして自分でしっかり考えてるなって感じさせてくれる文章を書いてくれる人がすごい好きです。
私はどうしてもちょっと格好つけてしまうし、そのあたりにごまかしあるのでいかん。
そういう人の文章を読んで、「断言口調でなくてもいいんだ」「自分がどこからどこまでわかってるかを自覚しておく方が大事だ」って思えるようになってきたら一安心かな、と思う。
改行が「少ない」記事や切れ味の「悪い」記事を書く人が好きです - この夜が明けるまであと百万の祈り
「ここまでは分かった。でもまだ自分に見えていないものがたくさんあるはず」という姿勢が好き - この夜が明けるまであと百万の祈り
正直者「を標榜する人」は嫌われる - この夜が明けるまであと百万の祈り
「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり」「偽りても賢を学ばんを、賢といふべし」 - この夜が明けるまであと百万の祈り
蛇足。
「厳しいことを言ってるから現実的」って人には↓の記事どうぞ。「誰かに対して厳しいこと言ってるから現実的」っていうバイアスには何の正当性もないです。厳しいことをいうことと現実的であることには特に関係はないし、本音や強い言葉で言ってるからといって、その言葉に正義があるわけでもない。このあたりほんとに大事
個人的には「だいたいそういうこと言う人に限って自分には甘い」という気持ちが強いです。(これもバイアスですが)