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「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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この世界の片隅に

見に行きました。正直、作品の感想はもうすでに多くの人が書かれていて、私もそれほど違わないのでその部分は書きません。おすすめの記事を紹介しておきますのでそちらをご覧ください。

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スローターハウス5」を思い出す人、「馬の首風雲録 」を思い出す人、「運命ではなく」を思い出す人、などいろいろいて面白いです。


この作品はあくまですずさんの物語である

一つだけ言っておくとすると

この作品は、戦時中に生きたすずさんという一人の個人をめぐる物語である。この作品についてわたしらがどう感じようが構わんし、この作品のそれぞれのシーンですずさんらの気持ちを想像するのは自由だ。だけど、絶対に自分の考えに強引に引き寄せて勝手にこの作品のメッセージみたいなのを作り出さないようにはしたい。自分が読み取る自由は許されていると思うけれどそれはあくまで自分が読み取ったもの。


すずさんの気持ちはすずさんのものであって私らのものではない。この作品をもってすずさんの何かを代弁をしたり、すずさんに何かを代弁してもらったりはできない。


個人が実際にその世界を生きて、どう思ったかについては「こうあるべき」も何もない。この人はそのように思ってこう生きたんだ、と理解すればいいのだと思います。見ているこちらが「こうすべきだ」みたいなのを振り回すのではなく、一つ一つのシーンで、彼女がどう考えていたのか、なぜそう考えたのか、と考えるようにしたいですね。


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すずさんはなぜあの時怒りを顕わにしたのか

というわけで、この作品は徹頭徹尾すずさんの物語である以上、とにかくすずさんの気持ちを考えるいうのが大事やろうとは思うわけなのだけれど……これがなんというか、私にはすごくわかりにくかった。わかる人にはすごくよくわかるらしいので、私が鈍いんかもしれんですが。

一つ一つのシーンをどこまで理解できているのか自信がないです。

8月15日に、すずさんがなぜああいう行動をとって、ああいう感情をあらわにしたのか。このシーンに至るまでの彼女の心の流れを含めて、ちゃんと自分の言葉で語れるように後で整理しておきたいとは思います。

周りで悲しんでる人にも腹が立って来た。しくしく泣いたり、顔に手を合わせたり、別れを惜しんだり、お前らはこんな状況になっても「大人」なのか、と煮えくり返っていた。病気で亡くなったならともかく、こんな、ゴムを伸ばしまくってたら突然バチンと切れたような死に方について何をお利口に悲しんでるんだ、ゴムを限界まで伸ばすという危ない行為を続けながら大丈夫だと言い張っていた本人に怒りはないのか。そういうところをごまかして故人を喪失したことだけを純粋に悲しむなんて器用すぎる。正解の顔をした人が雁首そろえてお別れに納得した涙を流していて、なんなんだこの世界はと思った。

nomuch.hatenablog.com/entry/2016/11/19/194147

記憶についての話

「ねえすずさん。
 人が死んだら記憶も消えてなくなる。秘密はなかったことになる。
 それはそれで贅沢なことかもしれんよ。」


「ごめんなさい。リンさんのこと秘密じゃなくてしもうた。
 これはこれでゼイタクな気がするよ……」

リンさんの話はぜひ原作を読んで確認してほしい。
「この世界の片隅に」映画 感想・考察 【リンさんの存在感を消した映画版の功罪】 : ナガの映画の果てまで




すずがここで国を守るんも
わしが青葉で国を守るんも
同じだけ当たり前の営みじゃ。
そう思うて、ずっとこの世界で普通で、まともで居ってくれ。
わしが死んでも一緒くたにして英霊にして拝まんでくれ
笑うてわしを思い出してくれ。
それができんようなら、忘れてくれ

生きとろうが死んどろうが。
もう会えん人が居って、ものがあって。
うちしか持っとらん記憶がある。
うちはその記憶の器としてこの世界にあり続けるしかないんですよね

私のこの世界で出会ったすべては、
私の笑うまなじりに。涙する鼻の奥に。寄せる眉間に。振り仰ぐ頸に宿っている。

晴美さんとは一緒に笑うた記憶しかない。
じゃけえ、笑うたびに思い出します。多分ずっと。何十年経っても。

これは不幸の手紙ではありません。


だってほら。
真冬というのに生暖かい風が吹いている。
時折海のにおいも運んでくる。
道では何かの破片がキラキラ笑う。
貴方の背を撫でる太陽の手のひら。
貴方を抱く、海苔の宵闇。
留まっては飛び去る正義。
どこにでも宿る愛。
そして、いつでも用意されるあなたの居場所。



ごめんなさい。
いまこれを読んだ貴方は死にます。



すずめのおしゃべりを聞きそびれ。
タンポポの綿毛を浴びそびれ。
雲間のつくる陽だまりに入りそびれ。
隣に眠る人の夢の中すら知りそびれ。
家の前の道すらすべては踏みそびれながら。
ものすごい速さで次々に記憶となってゆくきらめく日々を
貴方はどうすることもできないで。
少しずつ少しずつ小さくなり。
だんだんに動かなくなり。
歯は欠け。目は薄く。耳は遠く。
なのに、それを幸せだと微笑まれながら。



皆が言うのだからそうなのかもしれない。
あるいは単に他人ごとだからかもしれないな。
貴方など、この世界のほんの切れ端に過ぎないのだから。
しかもその貴方すら懐かしい切れ切れの誰かや何かの寄せ集めに過ぎないのだから。



どこにでも宿る愛。
変わりゆくこの世界の。
あちこちに眠る切れ切れの私の愛。
ほらご覧。
今それも貴方の一部になる。
たとえばこんな風に。



今私にできるのはこのくらいだ。
もうこんな時爪を立ててだれの背中も書いてやれないが。
時々はこうして思い出しておくれ

周作さん、ありがとう

この世界の片隅に

うちを見つけてくれてありがとう

今自分が世界の片隅にいるちっぽけな存在であっても

誰かに見いだされ記憶に残ることはできるかもしれないし。

まず自分からきれぎれの愛を誰かに与えたり誰かの居場所になってあげたり

そういうことはできるかもしれないし。

世界ってそんな感じで成り立ってると思うと、

まだ生きる希望の一つもわいてくるかもしれませんね。