追記:私と違ってプロの人からの解説がありましたので、まずこちらをお読みください。千田さんはこういう批判に答えられないなら学者失格であると私も思います。
市民的公共性は存在する(が千田氏の思うようなものではない)
千田さんが批判されていますが私は彼女の特定の言葉だけ切り取る流れには反対なので、自分でまとめました。みなさんも騒ぎになっている言葉だけではなく前後の発言も踏まえた上で判断してくださればと思います。
ただし、私は、前後の文脈も読んだ上で、やはり千田さんの話には問題が有ると思います。
ハバーマスの「市民的公共性」=「自分で考えてわたしと同じ考えになりなさい」であってはいけない
市民的公共性の話って、ハーバーマスのつもりだったんですが…。
— 千田有紀 (@chitaponta) 2018年10月4日
正直言うと、批判が多いハバーマスの「市民的公共性」概念を無造作に持ち出してくるあたりからしてかなりアウトだと思います。また、ハバーマスの「市民的公共性」自身はまだ議論の余地がある概念ですが、ハバーマス自身がその困難性を認めてる話であり、これを千田さんが自明のものとして持って来られると、どうしても下記のようなイメージを想起してしまいます。
わたしはこのような公共性をちらつかせて自分が気に入らない意見に圧力をかけようとする意見は「ハラスメント」だと認識しているので反発を覚えました。
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「公共」を巡るコミュニケーションについて考える際にハバーマスの公共圏や公共性の構造転換の話は知っておくと良いと思います
https://kotobank.jp/word/%E5%85%AC%E5%85%B1%E5%9C%8F-186002
https://kotobank.jp/word/%E5%85%AC%E5%85%B1%E6%80%A7%E3%81%AE%E6%A7%8B%E9%80%A0%E8%BB%A2%E6%8F%9B-169838
この目的意識を支えるのは,現代社会においては公共性の概念が国家の独占物となっていることへの懸念である。
本来,公共性とは自立した市民の理性的討議による「公論」の形成を目的としていた。それゆえ「批判的公開性」の原則がそこでは貫徹されていたのである。ところが立法国家から行政国家への移行,さらに介入主義的な国家政策の活発化によって公共性概念そのものが行政サービスの対象に変質した。ハーバーマスはこれを「示威的・操作的公開性」あるいは「統制された公共性」と呼んでいる。こうした公共性をめぐっての危機意識から「市民的公共性」の理念の再建という課題が提起された
http://www.let.osaka-u.ac.jp/~irie/ronbunlist/papers/PAPER19.html
我々は「公共」概念を「共同体的公共性」と「市民的公共性」の二つに区別することができる。
共同体的公共性とは、「共同体ないしそれに関するものごと」という意味である。市民的公共性とは、「自由な討論」と「公開性(越境性)」が認められているということである。この市民的公共性は、社会正義ないし政治的諸価値が討論される場合には「政治的公共性」となる。
ハーバーマスは諸集団の均衡とまたその組織の内部において公共性を確立することを提案している。つまり諸集団を通じた公共的な意志疎通と批判に参加させることを目指した
これはきちんと歴史を踏まえている社会理論です。 なので、某まとめのように「市民的公共性」という言葉を勝手に誤解して「千田さんは歴史を知らないのか」などと無理筋な批判をすることには私は強く反対します。一方で、この概念は批判も多い概念です。少なくとも前提抜きでいきなり唐突に持ち出すべきではないと私は思う。
ハーバーマスの「市民的公共性」概念は、近代家父長制のイデオロギーが深く刻印されているという批判がある
この「市民的公共性」の概念には、いくつかの批判があった。
(1) 市民的公共性の実質は、市民層(ブルジョワジー)の公共圏であり、それは絶対主義の公権力と宮廷・教会等の文化的権威に対抗する一方で、より劣位の公共圏-地方や都市下層の「人民的公共圏」など-を抑圧する関係に初めからあった。
(2) この市民層の公共圏には、近代家父長制のイデオロギーが深く刻印されており、女性の排除(女性の「主婦化」)はこの公共圏の存立に取って本質的な意味をもっていた。
(3) このように「公共性の他者」を排除する市民的公共性は、対内的には等質の一次元的な空間であった。
元々「19世紀までの市民公共性」の再生を目的とした場合、
ここで言われる「市民」とはオルテガで言うところの「大衆」に対する「貴族」的な人間を指す。
オルテガ『大衆の反逆』 - なごみワールド
オルテガの『大衆の反逆』を読んでみよう。 - Togetter
このため何も手を打たなければ「市民的公共性」は大衆を議論から締め出すような形になってしまう。これについて、ハバーマス自身も苦戦していたようだ。 まして現代は彼がこの概念を提起したときからさらに状況が変わっている。 にもかかわらず、現代に向けて何のアレンジもなくいきなりこの概念を持ち出せば、とうぜん「貴族」「市民」が議論して決めた公共性に大衆は従うべし、というような話になってしまう。 「隣組だ」とか「戦時体制だ」とかいう批判こそ的外れでは有るものの、ちゃんと理解しても反発を招くものではないだろうか。
最近、この言葉は使わないまでも「市民的公共性」みたいな考えをやたらと広範囲に適用しようとしたり、すぐに国家の介入をちらつかせる人が多くて、正直オタク云々をおいといて危険な感じがします。NHKはともかく、書店に対してまで過剰に公共性を求めるのは、ちょっとおかしいと思うな。(私はNHKも自由であっていいと思う)
さらに詳しく知りたい人は
このページで完璧にまとめられているので是非見てください。
https://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Resume%20on%20Habermas%20Structural%20Transformation.htm
さっきも言いましたけど、ハーバーマスの「市民的公共性」自体はちゃんと論じる価値がある話だと思ってます。ですが、千田さんの話し方は論外だったというのがこの記事で言いたかったことです。
「市民的公共性」の概念は表現のありようを論じる際に正当性を持ちうるのだろうか?
私は、そもそもこれだけ多様化してきた価値観、特にエンターテインメントのありようを考えるときに、画一的な正しさを前提としているような「市民的公共性」の概念を用いるのが適当とは思えません。同様に、多様性をはぐくむはずの書店の陳列に公共性を求めることもおかしいと思っています。それよりも、もっと政治的な話とかについて、まず市民的公共性を発展させることが効果的であることを示してほしい。そちらのほうをやってないとは言いませんが、まずそちらのほうでこの概念が今でも有効であることを示してほしい。
そもそも千田さんは不誠実な誘導を連続で行ったためもはや信用できない
千田さんは、今回初手で炎上と呼ぶにふさわしくないものを炎上として誇張して紹介したり、キズナアイは相づちしか打っていないなどの事実に基づかない記述を持ってNHKを批判してしまいました。この時点ですでに信頼性がかなり落ちています。さらに、二度目にはキズナアイを好きな女性はいないかのような前提で話をされていてこれもツッコミを受けています。
女の人はキズナアイのことなど好きにならない(なってはいけない)という決めつけは暴力ではないだろうか - Togetter
そして今回3度目になりますが「市民的公共性」の概念を使用することについて、注意点や正当性を問うこともなく無批判に引き合いに出しています。
こうなってしまうと、たとえ主張内容が目的が正しかったとしても、手法に置いて三度も立て続けに不誠実な誘導を行ったわけですから信用に値しないと言わざるを得ません。少なくとも、アカデミズムとしての姿勢としては認められません。こういうやり方を繰り返すなら教授の肩書を外してからやってほしい。
今回のNHKのキズナアイへの報道に関して「こういうところが気に入らない」「こうしてほしかった」とか要望を言うのは全然いいと思ってます。
主張がそれだけであれば「傷つく人はいない」とか「何も問題はない」といった態度で突っぱねるべきではないと思う。
でも、そこから「ノーベル賞の解説サイトに置くのが適切かどうか、問題にしてる」とか「公共性に反する」みたいなことを言われると、そこまでのことを主張するに足る理由があるのか?と言いたくなりませんか?(本人たちは「サイトを撤回しろとまでは言ってない」と言ってますが、「番組としてふさわしくない」「公共性に反する」という強い言葉まで言っておいてそれはないでしょう)
しかもそこで、根拠をもって言うのかと思ったら、上で書いたように3回も連続で不誠実な誘導を行っている。
私は、今回の件では千田先生の気安さや雑さが気になる。別にこの程度でオタク差別だとは思いませんが、はっきりいってナメられてるとは思う。どうせ対象が実在の人間ではない二次元だから雑に攻撃しても被害者なんていない。面倒くさくないから安易にそちらを攻撃してるという印象を拭えません。キズナアイの場合は、普通の二次元キャラと違うってことも途中まで理解してなかったことがまとめ中の発言内容の変化からもわかります。
でも、さすがにナメすぎたよね。今回珍しく、自分たちが守ってるという自分たちの根拠としていた女性から傷ついたと批判が出ました。
正直コレはこれでサンプル数が1件(コメント欄にいる方を含めても数件だけ)なので、これだけを持って騒ぐのはフェミニストの方々と同じであまり変わらないと思っています。ただ、そうなってから急に攻めの切り口を変えたり、キズナアイそのものを攻撃したわけではないという言い訳をしているのは流石にちょっと甘すぎると思う。今までそういう反撃を受けることが少なくて、ようやく少し気づいたのだと思いますが、いままで自分たちがどれだけ自分たちの加害性に無自覚にやってきたか、今回の件をきっかけに少しは考えてほしい。
性的客体化やら性的搾取などの定義すら不明確な雑な論理を使ったり、内面の決めつけまで行って二次元コンテンツやオタクを殴ってきた人たちに言いたいのですが。 今までこういう二次元コンテンツやオタクを殴っても傷つく人はいない、そのことを考えていなかったというのであれば。人を客体化=モノ扱いしてきたのは、むしろあなた達の側ではないんじゃないですか?
おまけ1 吉澤さんの説明が非常にわかりやすいです
本当は吉澤さんに説明していただくのがたぶん一番すっきりするのだと思いますが
私のつたない説明で混乱されたかたがいらっしゃったら申し訳ありません・・・。
こちらにまとめておきましたが、一部だけ本記事でも引用します
オタク文化の一つの側面として「ジャリ番をあえて真剣に視聴する」「生殖能力の無い子供を性的対象とする」といった無価値(反価値)に価値を見出すというものがあると考えますが、これを公共圏で議論し認めさせるのは困難ですし、よしんば認めさせても、ベタに評価された時点で倒錯的価値を失います。
— 吉澤 (@yoshizawa81) 2018年10月4日
例えば、オタク文化的にクジラックスのロリコンエロ漫画は極めて評価が高く価値があると思われます。しかし、それを「公共圏」に引きずり出せば、それは「ロリコンエロ漫画」以上でも以下でも無いですし、変に芸術性や批評性を見い出せば、それがむしろオタク的な価値を毀損しかねません。
— 吉澤 (@yoshizawa81) 2018年10月4日
インターネットの発達や大学進学率の向上等、市民的公共性の社会的基盤は形式的には整備されてきたはずなのに「#秋の金玉潰し祭り」と「#まなざし村」のハッシュタグが乱舞しており、むしろこのような状態こそ定常状態なのではないでしょうか。ここでは「公共圏」は排除の方便にしかならないでしょう。
— 吉澤 (@yoshizawa81) 2018年10月4日
おまけ2 返信
id:Lhankor_Mhyうーん、この批判だと、ハーバマスと一緒にサンデルあたりもぶった切ってると思う。社会合意を否定したとして「何を基準に線引きをしてそれが何に拠っているべきなのか」という問いに答えをお持ちなのかな?
そうでしょうか。私の中では、表面的にはハバーマスと似ているように見えても、サンデルとハバーマスの立場は異なると考えており、この記事の批判は、あくまでハバーマスの市民的公共性がそのままでは現代に適応できていない点に当てているつもりです。
少なくとも「市民的公共性」においてハバーマスのいう公共性とは、サンデルのいうところのコミュニタリアン的な思想ではなく、典型的なリベラルの理念であると考えています。「国家からの統制からの自由」「強制されるのではなく自ら選択する(かわりに自分を律する)」という1960年代ころまで力を奮ったリベラルの意見に近いのではないでしょうか。
これに対して、サンデルは著書
「公共哲学」において、リベラル派の失敗について語っています。
リベラル勢力は、自らを国家に対抗するポジションとして意識しすぎて、「国と個人の中間にあるコミュニティ(家族、地域、都市や町、学校、信徒団)における自己統治の重要性」を軽視してきた。国と個人に注目しすぎて中間コミュニティが非常に重要な役割を果たしている現状においてそぐわないと思います。
これに対して、サンデルは現代に特有の市民感覚として多様なコミュニティを選択することを許容しているしそのコミュニティ単位で「共通善」を模索することをすすめています。これはハバーマスの、ブルジョア階級が主導する、公共性の概念とは異なるものではないでしょうか。
なので、
社会合意を否定したとして「何を基準に線引きをしてそれが何に拠っているべきなのか」という問いに答えをお持ちなのかな?
まず、今回の件で言えば、私はサンデルの意見に近いです。
まずコミュニティ内部での共通善の模索が重要になるでしょう。このときにあまりに内向き、あまりに閉鎖的で、内部での批判をゆるさないような構造だと「ミニマリスト」や「互助会」、「腐女子界隈の独自ルール」みたいなことになるかもしれません。しかしコミュニティ内でも批判が機能し、複数の価値観のあり方が許容され、その中で議論の生態系が存在していればきちんと共通善の模索は機能するし、蛸壺化して外部から大きくはずれることはないと考えています。
公共哲学 政治における道徳を考える (ちくま学芸文庫) | ||||
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今回の件に限らず、とにかく、今は「社会的合意」について論じるにしても、層を分けて考えるべきではないかというのがわたしの意見です。私は国家全体の政治などのあり方を論じるベースとしてはリベラル的な思考は支持できると思っていますし、社会的合意を目指す必要も出てくるでしょう。しかしこと「コミュニティ」ごとに前提が大きく異なり、共有すること自体が困難なコンテンツの受容のあり方などにおいては、安易に公共性の話を持ち出すべきではないと思ってます。 リベラルのアプローチも不可能ではないかもしれませんが、それは国家に対するように「対立的な姿勢」ではなく、どうしてもやるのであれば、相手の前提をきっちりと学び、敬意を持って議論に望むべきです。私は今回の千田さんや太田弁護士さんの主張にそういうものは全く感じられませんでした。 すでにポカをやらかした人が、「市民的公共性」を持ち出してくることについて警戒心をもつのはむしろ当然ではないでしょうか。
逆にお伺いしたいのですが、ランカー・マイさん自身は「何を基準に線引きをしてそれが何に拠っているべきなのか」どのようにお考えなのでしょうか?