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「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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「誰かに対する批判や悪口」が自分のメインコンテンツになってはいけない

これ、ほとんどの人にとっては当たり前すぎる話だと思います。

でも私は結構いろんなことを批判してきましたし、「不本意ながらそういうコンテンツが人気コンテンツになってしまっている」のが現状です。

これからもいろんなことを批判することはあると思います。

ただ、それでも「批判されるやつが悪いんだから仕方ない」とか「批判するのはよくないことだから全部ダメ」とゼロかイチで考えるんじゃなくて「批判するなら、その分ちゃんと自分のポジションを意識しよう」「批判がメインコンテンツにならないようそれ以外のコンテンツがメインと認識されるように割合を増やそう」と考え、それを実践していきたいと思います。


「ブログ内の人気記事が他者への批判になっちゃってる」現状がとても歯がゆいです

はてなブログには「このブログの人気記事」というものを表示するオプションがあります。これを使えば、自ブログ内の被ブクマ数が多い記事を表示することができます。自分のブログの人気コンテンツが、自分のブログのコンセプトと合致している人であればぜひ表示すべき項目だと思います。

でも私はこれが使用できません。なぜかというと、私のブログで人気の記事は、不本意ながら自分がメインコンテンツだと考えているものが全然上位に来ないからです。


私のブログで過去に人気だった記事はこちらですが
『この夜が明けるまであと百万の祈り』 の人気エントリー - はてなブックマーク
見ての通り他者批判のものが多いです。


記事数の割合でいえば「面白かったマンガの紹介したり、面白い企業の紹介したり」「発達障害の話をやったり」が圧倒的に多いです。 
私自身も、自分のブログはマンガ・投資のブログだと認識してもらいたい気持ちが強いです。 マンガとか投資が好きな人に読んでもらいたい。
でも実際上の人気記事一覧だけみたら「はてな村の住民」とか「いっつも何かにツッコミ入れてる人」っていう認識を持たれちゃうと思う。
非常に残念だけど。




他人の批判をしたら、簡単に共感や賛同を得られるかもしれないけど、それは「批判してる対象」の実力であって自分の実力ではない

話は変わりますが先日、こんなことがありました。

「あいちトリエンナーレ」の件で、東浩紀さんがアドバイザーの地位を降りるという結果になったのですが。
これに対して私の知り合いがこんなことを言ってたんですね。


「ほらやっぱり東浩紀は間違っていた」
「私の正しさが証明された」
「僕は東浩紀に勝った」

……その人とはそこそこ付き合いが長いのですが、それを聞いた時の私の感想は「何言ってんだこいつ?」でした。


だって。
あなたtwitterの片隅で東浩紀の悪口言ってただけじゃん。
東浩紀からしたら「視界の片隅にも入ってない」存在じゃん。
そもそも戦いが成立してないじゃん。

「東浩紀が間違っていた」→「自分が正しかった」になる理屈もわからんしまして「東浩紀に勝った」って全く理解できない。


思わずヒデヨシさんのこの記事を思い出してしまいました

oreno-yuigon.hatenablog.com

田端さんはポジションを取っていない人間はdisらない。
サウザーさんが名指しで反論されたのは、彼が舞台に上がっているからである。
何者でもない人間はポジションを取ることもできない。

そんな状態で勝った負けたという発想が出てくること自体が理解できませんでした。


無名の個人が有名人を批判するのは全然いいんだけど、さすがに立場の違いはわきまえる必要はあると思う

もちろん名もない個人が、自分なりの意見を言ったり批判をしてもいい。間違ってると思うことは間違ってるといえることはとても大事。

実際、私もしょっちゅうやってます。
そういうことを気軽に発信できるのはネットのとてもいいことだと思う。

でもさ。

対等じゃあないよね。

まして「東浩紀個人と自分が戦ってる」という認識を持つのはおこがましいにもほどがあるし、誰かを批判することであたかも自分が対等かそれ以上の存在であると勘違いする人、すごく多いですけど論外だと思う。



私は「相手に存在を認知もされていない小さな存在だから気楽に好き勝手なことを言ってるだけの軽い存在だ」という認識はあります。 東浩紀さんと対等な立場から批判するという状態に至るためにはどれほどの積み重ねが必要かとか、同じような立場になったらどれほど発言に気を付けなければいけないのか、それを考えれば、到底対等な立場だとは思いません。*1

私はそういう考え方なので、その人がなぜ「東浩紀とまともに戦っているつもり」になっていたのかもわからなければ、まして「勝った」などという表現をするのかが理解できませんでした。


応援していたスポーツチームが勝利する喜びはわかるけど、そこで「自分がすごい」にはならんやろ

直接確認したところ、本人曰く「応援していたスポーツチームが勝利したような喜びを表現したかっただけだ」ということでした。

これについては私はあまり応援してるチームと自分を一体化させない人間なので共感はできませんが、理解はできます。野球ファンとかサッカー日本代表を応援している人たちとか見ていると「応援しているチームと自分を同一化する」くらいの感覚であれば理屈としては理解できる。オタクでも自分が好きなアニメが一番人気になると、多くの人と感情を共有できてうれしいと思ったりとか、自分が好きなアイドルが選挙で勝ったら自分も誇らしい気持ちになったりとかいるから、似たような気持ちなんだと思います。


でもさ。

普通スポーツチームを応援してる人たちは、別に日本チームがブラジルチームに勝ったとしても「自分そのものがブラジルチームに勝った」とは思わないでしょ?あくまでかったのは日本チームであり、自分たちはサポーターである、というう認識でこれは明確に区別されているはず……だよね?


その人にこの話をしたんですが、なお「僕は東浩紀に勝った」という表現は間違いだと思わないという反応でした。何か他にも認識のくい違いがあるのだと感じましたが、それ以上は特に追求しませんでした。たぶん何かあるんでしょう。私は特にその人の考えを否定しようとも思いません。その人についての話はここで終わりです。

(※最後に補足しておくと、この彼は批判ばかりしている人ではありません。ちゃんと好きなことについても語れる人です。何かを批判してるときは、だいたいものすごい雑なのですが、好きなことについて語るときはとても面白いことを熱く語ってくれます。好きなことについて語ってるときの方がやはり面白い話を聞けることが多いです)




「何かを応援する」方向ならまだしも、「誰かを批判することで注目や評価を集めようとする」とどうなっていくのか

つまり、傲慢至極にも、社会を拒否しつづけながらその社会において承認され尊敬される道を選ぶんだ。社会を拒否する態度そのものによって社会から尊敬を勝ち得ようとするんだよ。

働くことがイヤな人のための本 (新潮文庫)

働くことがイヤな人のための本 (新潮文庫)

それよりも、私は上の知り合いの人から話を聞いた時ものすごくドキッとしました。私もいろんな人を批判する記事を書いているから、自分もこの知り合いの人みたいな考え方をしていないか気になったんですね。


経験上、誰かを批判することで賛同や共感の声を得るのは、自分が作ったもので賞賛を得ることより圧倒的にお手軽です。特にはてなでは、何かを否定したがってる人がわんさかいるので、そういう記事を書けば人がやってきて「自分が言いたいことを言ってくれた」などといって褒めてくれます。この前はわざわざ目立たないようにサブブログで書いたのにそれでも誰かが目ざとく見つけてホッテントリになってしまいました。そのくらいネットにおいて、「自分で真っ向から誰かを批判しに行くリスクやコストは負いたくないが、誰かの尻馬に乗って気に入らないやつをたたきたい」というニーズは非常に強いみたいです。 「自分にとってどうでもいい話題」であればあるほど、そういう記事が人気になりやすいということを身に染みて感じました。


でも、そんなニーズにこたえて他者を批判するようなツイートや記事をいくら書いたところで、その場ではRTやはてブをもらえるかもしれませんが、自分自身は全く評価されません。 むしろ「御大層なこと言ってるけど、そういうお前は何者なんだ」にこたえられないと普通にバカにされます。そりゃしょうがないよね。




大事なのは、この時に「バカにしてくる声」じゃなくて「褒めてくれる声」の方に寄っていくと、あっという間に駄サイクルに入ってしまうということです。

ネムルバカ (リュウコミックス)

ネムルバカ (リュウコミックス)

このサイクルに入ると、だんだんと自分は周りの人に合わせてレベルが下がっていき、自尊心とか「何かと戦っているという高揚感」だけが高くなっていきます。その自尊心や高揚感を維持するためにますます「何かを批判する」ことにのめりこんでいく。

また、自己完結しているだけならまだましで、賛同する人たちが集まって集団になっていくとなおタチが悪いです。最終的には手段であったはずの「批判すること」が自己目的化し、その目的で集まった人たちが「批判する」という目的のために手段を選ばなくなります。デマやチェリーピッキング、クオートマイニングやストローマン論法を駆使して「批判のための批判」を繰り返す。そういう構造になっていくんだろうなと思います。

一番ダメなのが長谷川豊さんさんやイケハヤさん界隈のようなパターンですがそれだけとは限りません。「うさぎのみみちゃん」のように、最初は好きなことについて情報発信していたのに途中からは悪口アカウントとして人気が出てしまい、ヘイトをため込み続けた結果、些細なミスから大炎上してしまったケースもありますよね。そのくらい「他人の悪口で共感や賛同を得る」っていうのは麻薬のように魅力的なのだろうけれど、でもそちらに流されるとろくなことにならないんだと思っています。

fanfanfan176.hatenablog.com
www.tyoshiki.com


自分の観測範囲内では①ネットフェミニズムとアンチフェミニズムの対立②表現の自由問題③ネトウヨとサヨクあたりが特にひどいとおもいました。どれも最初は関心を持ってしばらく見ていましたが、今となってはどっちの陣営にも関わりたくないなあという気持ちです。
www.tyoshiki.com

最近でいうと「N国党」も近いうちにこういう対象になるんだろうなと思っています。



何かを批判したい人ほど、「自分は何者か」を語れるように普段から自己研鑽や情報発信を心掛けるべきだと思う

だらだらと語りましたが、言いたいことはシンプルです。

「何かを批判することによって注目を集めるのはお手軽だけど、それに依存してるとだんだん認知が歪んでダメな人間になっちゃうからやめておこう」ってことです。

「批判すること」がメインコンテンツになっている人たちというのは好かれないだけじゃなくて、自分自身が全く評価してもらえない。なのに自分だけは勘違いして舞い上がってしまうかもしれない。そうなるととても危険です。

「何かを批判するな」ということじゃなくて「批判をするならなおさら自分のポジションを明確に示せるようになろう」って思います。




というわけで。

これからもあくまで自分は「マンガ記事や投資の記事で評価されたい」「それ以外ではてブついてもそっち方向に流されない」ということは意識しておきたいと思います。

……冒頭に書いたように、99%の人には当たり前な話だと思いますが
自分は今後PVとか考えたときにこの罠にはまらないと限らないので、忘れないように書いておきます。



この記事を読んだ人に教えていただいたのですが、けんすうさんが私より広い視野で簡潔にまとめてくださってます。

kensuu.com
今回私が記事で書いた内容は「OPINIONのミス」の部分で触れられています。

ちなみにニュースに対して意見を言うの、めちゃくちゃみんなやりがちなんですが、あまりニーズありません。少なくても「ニュースにたいして、うまいことをいう人」というポジションは人気が出づらいのです。もし人気がでたとしても、世の中の意見とはずれた場合に、袋叩きにされたりするポジションです。そうなると、世間の風を読んで、迎合し続けるようになるか、みんな読まれるために過激になって、どんどん精鋭化していき、最終的に、すごい極端な言論を言い続ける人になるかのどちらかになっちゃいます。


ではどうすればよいのか、についてもじつにわかりやすくまとめられています。

最初にすべきことは、信頼を得ることです。そこで、Informationを出すのです。そして、多くの人に知ってもらってから、はじめて、Opinionを出したり、Storyを話したりするのです。

この順番はしっかり意識していきたいですね。



余談

私はスポーツで何かを応援するという感覚が昔からよくわからないです。
声優さんのファンだったり、アニメ作品が好きだったりとは何か違う気がする。

カープ女子

カープ女子

オトン、サッカー場へ行こう!

オトン、サッカー場へ行こう!

でも、なにか自分以外のものを応援することで自分も元気になるって話は結構好きですし、あのファンの一体感みたいなのは無性に憧れます。本当にうらやましい。私も何かを熱狂的に応援してみたいです。

*1:私自身の例をあげると、私は以前ヨッピーさんを批判する記事を書いたことがあります。この時ヨッピーさんは応じる必要がないのにちゃんと対応してくれました。ですが、これは①たまたま私の記事が多くの人の目についたせいでヨッピーさんも対応する必要がある状態になったからですし、②ヨッピーさん自身が(たとえ批判的な意見であっても)耳を傾けるタイプの人だったからです。 ①、②どちらの条件も満たさない場合、無視されても文句を言えないし、何か対応することを強要する資格もありません。逆に言うと、ヨッピーさんは「普段から多種多様な人に見られて、批判されるかもしれない状況で記事を、仕事として文章を書いている」わけです。 普段そうした覚悟をもって、リスクやコストも負担して発言している人と私が同じ立場だとはあまり思いません。