gendai.ismedia.jp
この記事ですね。
近年においては、恋愛に限らず、「ありのままの自分」や「本当の自分」、「自分らしさ」といった言葉が肯定的に使われているのを、よく目にする。それらの言葉によって、既存の男らしさ/女らしさを超越しようとする傾向も見られる。しかし、そのような場合においても、かつて女性の「本当の自分」とは「母」であるという価値観がつくられていったように、「本当の自分」の中身は、いくらでも一定の方向へ誘導され得ることに、自覚的である必要があるだろう。
あるいは、男性の「ありのまま」が私的関係においてのみ許されたように、特定の領域での「ありのままの自分」の解放が、他の領域での抑圧とセットになっている可能性にも、私たちは注意深くなくてはならない。
結論自体は穏当なものだと思います。
むしろ最近は女性のほうが「ありのまま」とか「女性解放」を無条件に良いものとして強く訴える傾向があることを考えると、むしろ女性に対して
「あなたたち、スローガンのようにありのままって言ってるけど、それがどういうことなのかちゃんと理解してるの?」
「ありのままの自分ってそんなにいいものなの?」
「あなたたちが求めてるつもりのそれ、誰かに誘導されてない?誰かを抑圧する形になってない?」
って問いかけるものとして受け取ることも可能でしょう。(たぶんそういう風に読む人ほとんどいないと思うけど)
なんですが、過程の部分がひどすぎると思うんですよこの記事。
裁判において「事実認定がめちゃくちゃだけど判決だけが正しかった」みたいなもんです。それソース不在の思い込みや論理の飛躍が散見され、読みにくいし納得度が低い。
主張内容にも同意できないけれど、それ以前の問題
すでに江口先生が詳細に批判されていますが田中先生の記事にはあまりにも問題が多い気がします。
togetter.com
・いつも書いてるけど、こういう受け身形の形の文章って基本的にはあんまりよくないと思うのよね。オンラインで文章書く人は気をつけてほしい。
・受け身で書いちゃうと筆者がどう考えてるかわからんのよね。っていうかそもそも考えてないのではないかとさえ思う。
なんでもソースつけなきゃならんってわけではないけど、こういう曖昧なことを書くときはやっぱりなにか方向ぐらい指してもいいじゃないかと思う。特にジェンダーまわりはほんとに勝手な話が多いところだから、ソースなしで書くことはけっきょくその人自身の価値観や思い込みだろうと思っちゃう。
ここらへんまででかなり読みにくくて読者を混乱させて不快な思いにさせてると思う。実は私自身ここまで何回も読んでぜんぜんわからなかったのよ。文章の最初の方はやっぱり読者と共通して同意できることを確認してほしい。最初っから飛ばしすぎなんだよな。
問いの立て方をまちがってるでしょ。
そういう(時代考証)のに無関心なのに残ってる文学作品とかそういうのから当時の人々の心象を想像する、みたいなのってよくないと思うんよ。
いずれも「文章の書き方講座」みたいな話です。主張内容以前の問題であるといってるように見えます。
これ「学者が書く文章としては論外」ってことじゃないかと。
こういう低品質な記事に「社会学者」の肩書を付けて本当に大丈夫ですか?
「問いの立て方が間違っていて」「思い込みで書かれていて」「論理的にずさん」なまま導き出された結論が社会学者が書いたという理由だけで権威付けされた形で共有されてしまう。
しかもtwitterや個人ブログでやってるならともかく「現代ビジネス」というメディアから出ていることから、あたかも基礎的な部分はチェックを受けたように勘違いをさせてしまう。
似たようなことは、千田先生がトランスジェンダーについて論文?を書いた時も小宮先生によって指摘されてましたよね。
frroots.hatenablog.com
サンプルが少ないのでこれだけで結論付けるつもりはありませんし、男性の社会学者もH氏やO氏などのように全く同意できない人たくさんいらっしゃいますが。
「社会学」の「特にジェンダー論」の「特に女性のジェンダー学者が書いた記事」にこう立て続けに「学者が書いた記事としては論外」なものが連続すると……学問としての意義とか、学問としての人選や品質チェック体制などについて深刻な問題を抱えているのではないかと思いたくなります。
他にも牟〇先生やら中〇先生のように「運動」の面が強くなりすぎて「学問」としてはバイアスがかかりすぎて正当性を失っているように見える方々が見られることも「どれだけ理論が立派でも人類にはまともに運用できないもの」なんじゃないかと感じます。
普段の講義で何を教えてるんだよ・・・って不安になります。
ただでさえ、twitterのネットフェミニストさんによって、頭が悪い意見があちこち出回っている関係上、アカデミズムの人たちにはしっかりしてほしいという期待があるのに、アカデミズム側でも最低限のラインを担保できないということであれば、存在意義そのものを疑います。
私はフェミニズムについてそれほど知ってるわけじゃないから自分の観測範囲だけで結論出すつもりはありませんが、さすがにもうちょっと期待したくなる何かを見せてほしい。