上のまとめで議員に絡んでいる人たちは確かに頭がおかしいと思う。
この人を他人事として馬鹿にして終わりでも全然良いのだけれど、せっかくだから自分事として考えてみたいと思う。
一行でいうと「閉鎖的なマイノリティ集団の中でマジョリティ意識を持った人は非常に厄介だ」という感じのお話です。
まとられてる人たちの問題は2つあると私は思う
1つは論理的思考ができないということであるがそちらが目立ちすぎてもう1つの問題点が見過ごされている気がする。
もう1つの問題点とは、自分がマジョリティであるという感覚に基づいて自分が理解できないマイノリティを「全人格的に」否定しようとしている、というところだ。
そして、私はどちらかというとこちらの方が問題だと思う。
ただ馬鹿なだけでは上のようなツイートはできない。こちらの「マイノリティに対する冷酷さ」こそが問題だと私は感じる。
ハーバード大学ですら「マイノリティへの嘲笑」という過ちをしでかす。ましてや私たちがこれに無縁などと思えない
大教室にたった2人しかいない少数派を問い詰める場合、個人の事情が派全体の事情へと拡大解釈されやすい。
それゆえ、多数対少数の議論では、多数派は本来の議論そのものだけで戦うことができるのに対し、少数派は全人的に矛盾を追求されることになりやすい。
もちろん少数派も同様の戦術を採用することはできるが、いくら個々人の矛盾を攻撃しても、「それは個人の矛盾である」と受け流され、議論の大勢に影響を与えることはできない。
形式的に多数派と少数派が平等に戦術メニューを与えられていても、現実の議論においては実質的に不平等が生じる。
この問題はいろいろと根深いと思うのだ。
自民党支持者が自分たちが正しいと思い続けられるのは単に自分たちがマジョリティ(だと思っている)だからである
やしおさんの記事はいつも面白いなと思って読んでいるけれど
以下の記事についてはやや牽強付会の印象が強くあんまり賛成できない。
記事で語られている要素が全くないとは言わない。
でもまず最初にもっと根本的な前提があると私は思うからだ。
日本において、野党支持者は、きわめて「マイノリティ」のイメージが強い。
これは野党側の振る舞いも原因だが、ニュースやインターネットでの扱われ方もそうなっている。
今の日本において、立憲民主党が自民党に対して対等な立ち位置から影響を与えうる
「カウンターパーティー」であると認識している人がどれほどいるだろうか。
まだ公明党の方がその位置に近いと思われているのではないだろうか。
立憲民主党の扱いは、共産党・山本太郎・N党とどれほど違うとみなされているだろうか。
このマジョリティVSマイノリティのイメージの固定が固着化したのが問題なのだと私は思う。
その証拠に、アメリカでは8年政権が続いても日本のようにはなっていない。
日本では安倍政権が始まって4年もたたないうちにすでに今のような状態になっていたのではないか。
こういったことを考えたときに、やしおさんの意見にあまり説得力はないと考える。
私の意見もあくまで推論であるが、
長期政権であることよりも、日本では野党がマイノリティのイメージしか持てなかったことのほうが
ウエイトが大きいと思うのだがどうだろうか? >やしおさん。
その結果、今では立憲民主党の人間が政府批判をした場合は
党の意見ではなく、その代議士個人が全人格的に矛盾を追及される構図をよく見る。
一方自民党批判はあくまでも安倍批判・自民党批判になりがちだ。
もう一度引用する。
大教室にたった2人しかいない少数派を問い詰める場合、
個人の事情が派全体の事情へと拡大解釈されやすい。
それゆえ、多数対少数の議論では、
多数派は本来の議論そのものだけで戦うことができるのに対し、
少数派は全人的に矛盾を追求されることになりやすい。
もちろん少数派も同様の戦術を採用することはできるが、
いくら個々人の矛盾を攻撃しても、「それは個人の矛盾である」と受け流され、
議論の大勢に影響を与えることはできない。
形式的に多数派と少数派が平等に戦術メニューを与えられていても、
現実の議論においては実質的に不平等が生じる。
安倍批判をしている人はその戦い方自体がマイノリティの戦い方だなと思う。
立憲民主党を応援しているそのやり方もカルト的とみなされるやり方になっている。
私はすでに自民党を支持しなくなったが、
かといって現在の立憲民主党に政権を担ってほしいとは全く思えない。
なにより、立憲民主党支持者だと思われたくない。
「なぜいまだに安倍政権が指示されているのか」を考える暇があったら
どうすればマジョリティを愛する浮動層を取り込める政党になれるのかを考えたほうが良いのではないか。
なお、「自民党支持者」がマジョリティであっても「内閣支持者」はマジョリティではないのがまたねじれてる感じある
this.kiji.is
自民党支持者であってもこのあたりについてはさすがに票が割れているみたいだ。
箕輪研修室の例のnoteも、マジョリティ-マイノリティの意識が関係してそう
https://www.tyoshiki.com/entry/2020/05/27/223701:emebd
これはねじれ構造になってて面白い。
当たり前だが箕輪研修室自体は社会的に見ればマイノリティ的な存在である。
しかしそのマイノリティな組織の中でも2年も所属していればサークル内でのマジョリティ意識というのは芽生えて来る。
そもそも、ホモソ的な雰囲気が強い閉鎖的なサークルでは、男性というだけでマジョリティ意識を持つこともある。
箕輪研究室においては、わざわざ「女性チーム」を作ってるほどなのだから裏返せば男性中心コミュニティ要素は強かったと思われる。
なので、自分は箕輪研究室の中でのマジョリティである=自分の感覚こそが箕輪研究室である
という、ガンダム00みたいなノリでマジョリティである自分がマイノリティである女性告発者に対して
マウントを仕掛ける形でnoteを書くという行為を、なんの問題も感じずにやらかして
さらにそれを、同じくサークル内のマジョリティ側の人間が称賛するという地獄のような構図が生まれたと考えられる。
しかし、そのマジョリティ意識は「箕輪研究室の外」に出た瞬間無効化される。
それどこか世間からしたらマイノリティ側にあたる箕輪研究室内での感覚はマイノリティ側として断罪されることになったわけである。
マイノリティ集団の中でマジョリティ意識を育てた人の厄介さ
ここで冒頭のまとめの人の話に戻る。
上の人は明らかに一般人の間隔では頭のおかしい人である。
しかし、そんな人でも偏ったサークル内ではマジョリティの意識を持つことがある。
こういう人は、自分の感覚が一般的であるという錯覚を起こす。
この人の言動を振り返ってみよう。
①まず自分の言ってることが正しいと疑わずに議員に絡みにいく
②自分の意見が議員にはねのけられると、そのやりとりをさらそうとする
③自分に同意する人間となれ合ってさらに自分の正しさを確かめようとする
とてもじゃないが自分がマイノリティ側だと認識している人間のとる行動ではない。
箕輪研究室の告発を行った女性が、同じ研究室の人間に絡まれた後どんどんトーンダウンしていく様と比較してみればよい。
つまり、このおかしな人は自分側がマイノリティだとか、自分の側がおかしいとは全く思ってなかったのだ。
だからこそここまで傲慢で、かつ攻撃的になることができたのだろう。
周りからさらされることではじめて「自分の狭い世界だけではなくより大きな視点で見ると自分はマイノリティ側である」
という現実にぶち当たることになったわけだ。
「自分側がマジョリティで、相手側がマイノリティ」だと思ったときに人は傲慢がちなので気を付けたい
こういう構図を考えると、上の人の間抜けなふるまいは、決して自分に他人事だとは思えない。
「自分はマジョリティである、自分はみんなと同じ方向を向いている、自分の意識は社会にとって標準で当たり前だ」
という意識は基本的に自覚が難しい。
さらに「自分はこの場ではマジョリティかもしれないが、場自体がマイノリティの集まりだ」という認識を持つのは
もっと難しいのは言うまでもないだろう。
議員に絡んでいた人は頭がおかしいと思うが、それに対して他人事であり自分は大丈夫だと安心してはいけないと思う。
じめじめとした閉鎖的なコミュニティを好み、勘違いしてそこから外に出て陽の光にあたると死ぬあたりは吸血鬼みたいなもんだと思う。
このあたりの感覚をとても上手に描いてくれているのが「ぬきたし」というゲーム
この作品ではマイノリティとマジョリティの立場が話の中で大きく入れ変わる。マイノリティとマジョリティという立場は「くくり方」を変えただけでこんなにも容易に反転するのかというのを見せつけられるという意味ですごい作品だと思う。
1において舞台となるセイラン島では主人公は性的マイノリティである。このため主人公は迫害され、深刻なコンプレックスに苦しめられる。そのことでマジョリティ側である島の人間を強く憎むようになる。
しかし、戦いの末島の外側からの介入を呼び込むことに成功すると、一転して「日本全体」というくくりになるので島の人間たちはマイノリティ側になってしまう。主人公たちは、今までマジョリティとして自分たちを迫害してきた島の人間たちが、今度はマイノリティとして迫害される光景を目にすることになる。自分は今までマイノリティであるがゆえに迫害されることのつらさを知っているのに今度は「マイノリティを迫害するマジョリティ側」になってしまいそうになる。
現実でもフェミニストのように「自分がマイノリティであり、マジョリティへの反逆者である」という自意識がめちゃくちゃ強い人がいる。しかしこういう人たちは、ネットでは一体何をやってるかというと本当の意味ではマジョリティへは反逆しない。代わりにたたきやすそうなものを見つけてみんなで袋叩きにしているだけ。「自分がマジョリティになれる」シチュエーションを作って、「マイノリティ」の立場に落ちた人間をたたいて喜んでるだけ。そのくせ、自分たちは絶対にマイノリティ側だという立場を崩さない。自分たちの行為はあくまでマジョリティへの反逆なのだからといろんな免責や特権を主張する。こういう不正をやってる人間はフェミニストでもなんでもなくただのクズなんだけど、ただのクズがフェミニストのふりをして他人を殴ろうとする光景は毎日ネットのどこかで起きている。
主人公はこういうフェミニストのふりをしたクズたちの行為を断固として拒否する。 たとえにっくき存在であっても不当に迫害されている島の人間を守るために今度は島外からやってきた迫害者たちとも戦う。そして最終的にとあるヒロインの願いをかなえるため、今まで反発しあっていたマジョリティとマイノリティの共生を目指していくことになるのだ。
さらに言うと、2では立場が逆転する。主人公はマジョリティとして島の治安を守る側の役割を果たすことになる。しかし、自分たちが見落としていたさらにマイナーな性的マイノリティが存在することがわかる。(MtFなどのジェンダー問題)
1ではマジョリティに反逆して自らの権利を勝ち取った主人公が、今度は自分たちとは違う別のマイノリティによって反逆を受ける。自分たちがマイノリティの側から解放されたからそれで終わりとしてはいけない、ということも認識する。
al.dmm.co.jp
基本バカゲーなんですが、物語の構造だけみたら「タクティクスオウガ」みたいに面白い作品なのでお勧めです。