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アニメ「平家物語」六話:福原遷都~富士川の戦いでの敗北編 | 源頼朝の描き方や扱いがすっごい簡略化されており、監督の「これを描きたい」がはっきり伝わる

都は変わった……私も変わらねば。 戦うのだ。戦わねばならんのだ。平家の武士として!(平維盛)

信長のおかげで有名になった「敦盛」が登場するアニメの第六話、はっじまーるよー。

www.tyoshiki.com

清盛以外も、清盛の兄弟たちは戦いに秀でた人たちだったんですよね。しかし、清盛の子らは、みな戦いを知らなさ過ぎた……。

武家の世を目指していた清盛の後を継ぐ者がおらず、急速に貴族化してしまった平家一門に対してガチの坂東武者が群れになって襲い掛かるという展開はなかなかにエグいと思うけれど
いくらなんでも直前まで圧倒的に強かった平家が、頼朝が立ち上がった直後から急に弱くなりすぎてなにか違和感を感じます。
この時代に関する歴史書は「源平盛衰記」「愚管抄」「平家物語」「吾妻鏡」などいろんな作品がありますが、どうもしっくりこないものを感じてしまう。


琵琶サイド

重盛の死が1179年9月、それから以仁王を討伐し、1180年6月に遷都が行われる。

①福原遷都に伴い、琵琶も福原へ。

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ちょっと「敦盛」と「清経」の「あら~^」な描写が見られる


②そのころ徳子は後白河法皇と高倉上皇を慰めていた

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高倉上皇は、平家の一門である徳子を疎んじていただけではなく、
自分より年上で美人の徳子にあこがれや恥じる気持ちが強くて素直に接することができなかったのだと告白する。


③清盛のためにモノノ怪鎮めのために琵琶を演奏する。
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ここで清盛が熱く語る部分、かなり好きです。



④源氏との戦いが始まり、柔和ながら優しく、美しい舞をまっていた維盛も、すっかり兵士になってしまったのを見て琵琶は寂しく思うのだった
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男たちの戦いサイト

①福原へ遷都することに
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貴族たちは、平家に逆らえず自分の屋敷を取り壊してまで清盛に随行した。


②遷都した後、たくさんの怪異が起きる
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もののけのうわさがたつのは、京に比べてここがあまりに寂しいからだろうな。みんな京に帰りたいと思っているんだ


③ついに源頼朝が挙兵する。

清盛は、重盛の長男である維盛に期待して総大将を任せる。
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伊藤(藤原)忠清と斎藤実盛を補佐につける。

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しかし、よく知られている通り、水鳥の羽音に驚いて戦わずして逃走してしまった。


④清盛は激怒し、維盛はあわや流罪となりかける……

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おまけ

①平家物語の現代文役が掲載されています。

第6話は「巻の5」の部分ですね。
roudokus.com

保元の乱と平治の乱は覚えている人が多いと思いますが、以仁王の令旨に端を発する戦いは「治承・寿永の乱」と言います。



②平敦盛は平経盛(三男)の末子です。

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彼は歌や笛を愛する青年でしたが、一ノ谷の谷の戦いで命を落とします。彼のその際の立派な姿や非業の死は、信長が舞ったとされる「敦盛」の元ネタになっています。

父・平忠盛が鳥羽院より賜った『小枝』(または『青葉』)という笛を譲り受ける

織田信長の好んだ歌「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享け滅せぬもののあるべきか 」は幸若舞『敦盛』の一節である。

③作中で徳子が諳んじたのはこの一説ですね。
machiko-o.cocolog-nifty.com

見るに心の澄むものは、社毀(こぼ)れて禰宜(ねぎ)も無く、祝(はふり)無き、野中の堂の又破れたる、子生まぬ式部の老いの果

見ると心が寒くなるのは、神社が壊れて神職たちさえいないもの、野中のお堂の荒れたもの、子どもを生まない女官の老いの果て




④源頼朝が登場するが扱いが軽い(笑)

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ja.wikipedia.org

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一応カットされた部分を載せておきますね。

見ての通り頼朝は挙兵してから結構苦戦続きで、二か月以上逃げ回ってようやく富士川へたどり着いたというところです。

アニメでは軽めに語られていますが、「維盛が敗れたこと」の損失は平家にとって致命的だったと言えます。逆にいうと、清盛はそのくらい重盛のことを大事に思っており、その息子である維盛に手柄を立てさせたかったのですね。 年を取って後継者選びに頭を悩ませていたともいえます。

・4月27日、伊豆国の頼朝にも、叔父・源行家より令旨が届けられた。以仁王は源頼政らと共に宇治で敗死したが、頼朝は動かずしばらく事態を静観していた。
 しかし平家が令旨を受けた諸国の源氏追討を企て、自身が危機の中にあることを悟った頼朝は挙兵を決意すると、坂東の各豪族に挙兵の協力を呼びかけた

・8月17日、頼朝の命で北条時政らが韮山にある兼隆の目代屋敷を襲撃して兼隆を討ち取った

・8月23日、真鶴付近で石橋山の戦いに突入することになってしまった。頼朝らは本拠地三浦を発した三浦一族と合流する予定であったが、三浦一族が大雨により増水した酒匂川で足止めを食ったため合流できなかった。頼朝軍三百騎は平家方の大庭景親、伊東祐親ら三千余騎と戦って敗北し、土肥実平ら僅かな従者と共に山中へ逃れた。数日間の山中逃亡の後、死を逃れた頼朝は、8月28日に真鶴岬(現在の岩海水浴場)から船で安房国(現在の千葉県南部)へ脱出した

・8月29日、安房国平北郡猟島へ上陸した頼朝は、房総に勢力を持つ上総広常と千葉常胤に加勢を要請した。頼朝は9月13日に安房国を出た。その後、下総国府で千葉一族と合流、広常が大軍を率いて参上し、上総・千葉両氏を勢力に加えた頼朝は10月2日太井・隅田の両河を渡る。武蔵国に入ると足立遠元、葛西清重を加えた。葛西清重の説得によって同じ秩父氏一族である畠山重忠、河越重頼、江戸重長らも頼朝に従うことになった。

・10月6日、かつて父・義朝と兄・義平の住んだ鎌倉へ入る。東国の反乱の報告を受けた平家は平維盛率いる追討使を送った。

・10月16日、頼朝はこれを迎え撃つべく鎌倉を発し、途中で従わぬ豪族を制圧しながら黄瀬川に着陣する。

・10月20日、甲斐を発して鉢田の戦いに勝利した武田信義らと共に富士川の戦いに勝利する

なお、頼朝はこの時点ですでに33歳。父が平治の乱で戦いに敗れた時点ですでに13歳であり、命を助けられて以来20年以上ずっと耐え続けていました。



⑤富士川の戦いについて
ja.wikipedia.org

平家物語のせいで、維盛のボンボンぶりや臆病ぶりがやたらと強調されていますが、実際は戦略ミスと言われています。

・大庭氏、伊東氏、駿河豪族などの在地親平氏勢力の壊滅や坂東などの豪族たちが雪崩をうって頼朝らについたため、甲斐源氏の軍勢は2万余騎となった。在地勢力による反乱軍への初期対応を戦略の一貫に組み込んでいた平氏方の構想を挫くことになった。

・兵糧の欠乏により平家方の士気は低下し、まともに戦える状態になかった。『吾妻鏡』によると、この時点での平家方は4000余騎でかなり劣勢であり、さらに脱走者が相次いで2000騎ほどに減ってしまう有様だった。この要因として、平氏軍の大半が遠征の中途で徴発された駆り武者によって占められていることなどが挙げられている。両軍の兵力差から、平家方は戦う前から戦意を喪失しており、奇襲に対してかなり神経質になっていた