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「セクシストでない人はみんなフェミニストです」という言葉が「フェミニストじゃない人はセクシストだ」に変わる時、フェミニズムは全体主義になってしまう

どこの大学か知りませんが、最近の大学では「中立の立場を取るやつはレイシストだ」っていうレッテルを学生に教えてるみたいですね。

「セクシズムに中立はない。中立の立場を主張する人間はレイシストだ」ですって。
「平家にあらずんば人にあらず」と言わんばかりの過激さであり、リベラルアーツを教える大学でこういう教育をしてるのは非常に危険だなと思いました。







言葉の並び方が違っただけでどれほどの違いもないと思うかもしれませんが実際は、ニュアンスもその言葉の使われるいとも全く逆だったんですよ。

日本では2017年ごろに上智大学の三浦まり教授がバッド・フェミニズムなどの文脈から「性差別主義者でないならフェミニストです」という考え方を紹介していました。

「あなたはフェミニストですか?」と尋ねられたら、あなたはどう答えるだろう? 即座に「はい」と答えられる人はごく少数だと思う。しかし「あなたは性差別主義者ですか?」と尋ねられたら? 多くの人が「いいえ」と答えるはずだ。ジェンダー問題に取り組んでいる三浦まり上智大学教授は、「性差別主義者でなければ、みんなフェミニストです」と定義する

なぜ語順を気を付けなければいけないのか=フェミニストの定義があいまいすぎるからです

これ読んでちょっと反発を覚えるかもしれないけど落ち着いてほしい。

「性差別主義者でなければみんなフェミニストです」という言い方と「フェミニストでないならみんな性差別主義者だ」は全く意味付けが異なるということです。




これは文字列だけ見たら対偶関係に見えます。

しかし前者における「フェミニスト」と、後者における「フェミニスト」が同じではないというトラップがあります。

現状では「セクシストでないものはすべてフェミニストである」という前提からスタートしたはずが別の「フェミニスト」像を挙げ、そのフェミニスト像を掲げてそれ以外をセクシスト呼びするということが平気でまかり通っています。 要するに「AでないものはすべてBです」と「BでないものはすべてAです」は対偶ですが実際にこの人たちが言ってるのは、「AでないものはBです。CでないものはAです」になっているわけです。途中で「同じ言葉を使っているのに、別のものを語る」という詐術が含まれているわけです。


このように、フェミストの定義を厳密にして、Bが同一であることを固定しなければ対偶関係は成り立たないし、語順によって運用が大きく異なります。そして、Bを厳密に定義するのであれば「A出ないものはBです」という表現は不要になります。現状では、フェミニストの定義が拡散しまくっているので、「語順の問題ではない」と言ってる人は自分を欺いています。この欺瞞に気づかないほど阿呆なのか、わかっててこの欺瞞を押し通そうとしているのか知りませんが、いずれにせよ現状において後者の語順で運用することは不可能です。

前者の語順であれば「セクシスト」側を厳密に考えるべきであり、フェミニストは多様なありかたが認められます。(ブラックリスト方式)。こちらは柔軟な運用が可能です。後者であれば、「フェミニスト」側を厳密に考える必要があり、フェミニストの「一人一派」は否定されます。(ホワイトリスト方式)そうでないと運用ができません。現状のようにはてなブックマークでヘイト発言をまきちらしている人やミサンドリストと呼ばれる人は除外する必要があるでしょう。

id:kotetsu306 "性規範や性差別を押しつけないで、女性を対等な存在としてリスペクトするのがフェミニスト"という定義が前提なので、
対偶も「性規範や性差別を押し付ける人がセクシスト」という当然の話。語順の問題じゃない

その前提が「固定」されているのであれば異論はありません。私にはそうは思えません。
であれば、石川優実さんやクボユウスケさんはフェミニストではないし、ミサンドリストもフェミニストではないと明言してください。
ミサンドリストの中にセクシストに該当する人が含まれている現状でそれを主張されるのであれば「セクシストでない人はみんなフェミニストです」自体が偽になります。




もともとはレッテルを張るための言葉ではなくて、むしろその逆。多様なフェミニズムのありようを認める言葉だった

三浦まり教授が言いたかったのはこういう話です。

日本では、女性を守ってあげる男性をフェミニストと呼ぶことがありますが、これは「好意的な性差別者」と言っていいでしょう。本人は意識していなくても「守ってあげる」という上から目線は、女性を自立した存在と扱っていません。攻撃的な「悪意のある性差別者」に比べてソフトな形で女性を抑圧する存在です。

相手にも自分にも性規範や性差別を押しつけないで、女性を対等な存在としてリスペクトするのがフェミニスト。そう考えていけば、自分がかっこいい、ハッピーだと思える方法で、肩肘張らずにフェミニストを名乗っても良いのではないでしょうか。無意識に偏見を持っていたことに、後から気付くこともあるでしょう。100%正しいフェミニストである必要はないのです。気付いた時に学び直せる素直さがあれば大丈夫。セクシスト(性差別主義者)でなければ、みんなフェミニストなのです。

元々は、自分たちをフェミニストの立場におき、自分たちの意見に反するものをセクシスト呼ばわりすることが目的ではなかったわけです。
「性規範や性差別を押しつける」のはよくないなーくらいの感覚を持ってたらそれでフェミニズムだよ……ってな感じでフェミニズムの敷居を下げることが目的だったわけです。



要するに「性差別はよくないよね」ってくらいのスタンスでもまずはフェミニストになれるわけです。「私が認めたフェミニスト以外は全部セクシストである」とは全然違うわけです。



これは、以下の動画でもだいたい同じようなことを語られています。

www.ted.com

家事が大嫌いな女性がいました。 本当に嫌いなのですが 好きなフリをしていました。
「良き妻」になるように 育てられたからです。
ナイジェリアで言うところの 「家庭的」な女性に 結婚してしばらくすると 彼女は変わったと夫の家族が 文句を言い始めました
変わったのではなく 嘘に疲れただけです。
ジェンダー問題が起こるのは 「こうであるべき」と 規定するばかりで 本当の姿を認めないからです
どんなに幸せになれるか 想像してみてください。
ジェンダーにまつわる 様々な固定観念という重荷がなければ、自分らしく生きるのが どんなに楽になることでしょう

「フェミニストとは 男性あるいは女性で 『今でもジェンダーの問題は 存在するから 正し 改善しなければならない』 という人のことである」
私の知るフェミニストの鑑は 私の弟のケネです 優しくて ハンサムで 素敵な男性です しかも とても男らしいんですよ

聡明な人たちは、男女で分けようとしなかった。

「理不尽なジェンダー観」や「ルール」に対しては怒るけれど、男そのものに対して怒ろうとはしなかった。

「むしろ、男の人だって今の性規範に苦しんでいる人たちもいるはずだ。そういう人たちと連帯して、今の規範やルールを変えていこう」という感じで呼びかけていたわけです。

男女でわけない、男だってフェミニストの仲間になれるという前提なのだから、当然ですね。





ところが、途中から言葉の順番が逆になってしまったことで、思考までおかしくなった

Maisie Williamsという人あたりから、この言葉の順序が逆になっていったんですよ。

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このあたりから「意識高い人たちが、自分たちに反対する人たちを攻撃するための言葉」として使われるようになりました。

フェミニストが気に入らない人たちを「表現の自由戦士」と呼ぶのと似たような感じです。

韓国のフェミニズムでは標語のようになっているそうです

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本来は多様なフェミニズムを認める言葉だったのに、語順を変えたことによって「我々の側か否か」の二択を迫る形となり、全体主義に陥ってしまった

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まじでこれ、ちょっとでも考えればわかることだと思うんですが、なんでわからんのだろう。



日本では「マルクス」さんや「和製ウィメンズマーチ」によって、完全に間違った方向で伝えられてしまった

togetter.com



太田さんも弁護士も同様の発言をしていたようです

2018年8月2日のツイートらしいのですが今は消えてますね。




石川優実さんにも同じ問題が指摘されていますが「我々の側でなければセクシストだ」という論法は極めて危険

togetter.com

石川さんの「理念に賛同して一緒に行動してくれない人すべてを敵視する」という考え方からは盛者必衰の響きがします。


実際、多様性を認めないそのありように嫌気がさして、フェミニズムから離脱する人が増える結果となっています。


最初の三浦教授の話に戻れば、「自分の性規範の正しさを押し付けようとする人」はもはやフェミニストではない

たとえ、ある意味で正しい側面があったとしても、そういう規範を他人に押し付けようとすることは、三浦まりさんたちが提唱するフェミニストの理念に一番反しています。

つまり、今はフェミニストでない人がフェミニストを名乗ってる状況なわけです。

かつ「私たちの仲間ではないものはフェミニストではない=セクシストである」という論理を使っている。

「フェミニストでない人がフェミニストを簒奪し、我以外の者はフェミストにあらずと言っている」という状況。とても滑稽だと思います。



たかが語順、されど語順。ちょっとしたニュアンスの違いが致命的な間違いにつながることもある

「反差別」とか「フェミニズム」みたいに道義的に優位性が認められている人たち、構造的にこういうニュアンスの違いに対してめちゃくちゃ雑な人多いんだよね。

他の人は、道義バリアがないので間違ったこと言ってたら普通に批判されるんだけれど、この手の人たち、自分たちが批判された時に「雑な言葉遣い」とかが批判されてる時でも「フェミニズムに逆らうのか」とか「これだから表現の自由戦士は」ってやってしまう。

この「表現の自由戦士」という言葉を使うこと自体、「「我々の側でなければ〇〇だ」という全体主義の思想が濃く表れてるという自覚がない。

一事が万事、全部つながってるんですよ。

そもそもが、他人が下駄履いてたり、ガラスの天井があることに反対してるのに、自分たちが道義性というゲタを履いて雑な議論展開してることに無頓着という時点でもうすべてがダメ。

「自分たちは暴言吐いたり雑議論してるのに、批判は受け付けない」みたいな人たちが、人をどれだけイラつかせてるかはもうちょっと認識してほしいと思います。