頭の上にミカンをのせる

「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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発達障害

ウメハラ「人に教えるときは高圧的で、教わるときは言い訳ばっかりしてる人いません?見るのも嫌」

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何気なく見たけどこれ「あるある」だよなあ……。

怒られる側になることに慣れてない人って、怒られたときの態度ですぐわかるよね……

「言い訳をして相手が何に怒ってるかを知ろうともしない」
「すぐに話題やゴールポストをずらす」
「とにかく自分の意見をごり押しする」
「謝ったら負けだと思い込む」みたいになりがち。



いますよねこういう人……。


こういう人たちって本当にうんざりする。



まぁ言いたいことはだいたい動画で言い尽くされてるのでそちらを見てください。ここからは自分語りでも。



怒られるのに慣れると、「怒る」や「怒られる」に特別な意味を見出さなくなる

私は幼い時からずっと怒られ続け、否定され続けばっかりでした。

いわゆる発達障害ってこともあってどうしてもずれた行動をとることが多く人と同じようなことがなかなかできるようにならなかった。しかも、幼いころは発達障害というキーワードが共有されていなかったから親や教師からも「こいつはやる気がない」「こいつは舐めている」と思われてしまい「痛くしなければ覚えませぬ」という感じであたりが常に厳しかった。

なので、基本的に「わたしは人に舐められやすい」「なめてくる奴は調子に乗らせる前に殺さねばならぬ」という被害者意識は強いけれど、怒られることそれ自体は慣れている。

怒ってる人を見ても、リアルで「俺またなんかやっちゃいましたか?」みたいに結構ニュートラルに受け止められる。世の中には処世術として「逆ギレ」したり「すごんで威嚇」するようなおじさんが多いけれど私は割とそういうのは平気だ。(だからそういうおじさんの相手を任されることが多いのだけれど、耐性が高くて他の人よりダメージを受けにくいだけで、ダメージ自体はしっかり受けるから勘弁してほしい)

*1

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とは怒られるには慣れても、「でも怒られ続けるのはやっぱりつらい」 → とっとと謝って状況をニュートラルに戻すのが良い

一時期は、謝り方もへたくそで余計に相手を怒らせていじめられたりもしたけれどそのあたりは本を読んで勉強したりもした。
「自分が失敗したときに自分から率先して謝ること」は屈辱でもなんでもなく
 傷んだ人間関係を修復し、意識を未来に切り替えるポジティブな行為なんだ、という考えに触れたときは救われたような気がした。

www.tyoshiki.com
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どうしても自分は他の人と同じようにできなくて怒られることはあるけれど
その時にちゃんと謝って、それから改善するってのを積み重ねていけば、人並みくらいの評価までは持って行ける
という気持ちになれたおかげで、何とか生きていく希望が持てた、まである。

それを教えてくれた山田ズーニーさんの本はいまだに自分の中で最重要な一冊である。



自分が怒られるの怖いとか、謝るのが苦手って思ってる人は絶対に読んだ方がいいと思います。大げさじゃなくマジで人生を変えうる本です。

これも面白いなあ

blog.tinect.jp

たぶん、私達は頭では「戦わずして勝つのが最高だ」とは理解できてはいるのだが、その一方で「悪い奴を血祭りにあげるのは超気持ちいい」と身体で深く理解しているのだ。その捻れが争いのないスムーズな表社会を心地よく思う一方で、SNSやマスコミのニュースといった裏社会でゴリッゴリのバトルを繰り広げるというズレた行動原理に繋がっているのである。

そういうものに感じる面白さは否定するような性質のものではないと思うし、フィクションを通じて消費できるというのなら、むしろ健全であろう。これはある種の自慰だと僕は思う。己の中にある血祭り欲求はキチンと認めてあげて、その上でそれは裏の中でちゃんと処理するべきなのだ

*1:はてブ民はタイトル以外読んでくれないので未だに理解されないけれど、私は「舐めてかかってくる人間が嫌い」なだけであって、批判されたり怒られたり、間違ってたらそれを認めることには全く抵抗がないんですよね。なぜか「はてブを怖がってる」とかいろいろ言われるけど、はてブ民でたとえ500名くらいからお叱り受けようが、私が人生で受けてきた叱責と比べたらコバエ程度の存在感しかないことを理解してほしい。基本的にはてブ民って自分たちの影響力を過大評価しすぎだと思う