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はてなブログが有料オプションを始めたので、本来「金を払って読むべき文章」とはどういうものかを考えてみる

以前こういうことを書いたのだけれど
www.tyoshiki.com

下の図を見るといろいろ思うところがある……。


こういうのを見ると、改めて「金を払って読むべき」記事は私には書けないのだな、と思う。
私はブログを書くのが好きで、書くだけならいくらでも書けるが、「金を払って読むべき文章」は書けない。
この図に沿って、ただのブログ記事と「金を払って読むべき文章」の違いはどこにあるのかを自分なりに整理しておきたい。

①書き始めのころはみんなインターネットで文章を書くこと自体が楽しいからどんどん書こうとする

最初は他人の反応を気にしすぎずに書くことを楽しめる時期もあるだろう。

いざ書いてみると思うように書けないだろうし特に「言いたいことはこんなにあるのに書ききれない・まとめきれない」みたいな思いをすることもあるだろう。

それでもなお、思ったことを文章に書いてみるというのはやってみると、それ自体が面白いと感じる人は多いはずだ。

書くという行為自体が楽しめる人は決して少なくないと思う。 

読者がいなくても文章を書ける人は「継続」という意味では無茶苦茶強い。

私は今でも、読者の事を意識してるようであんまり意識しないので、「書くこと」がお仕事になることはないけれど継続という点だけはめちゃくちゃ強い。



②少しずつ読者を意識し始めると、書くことに制約が生じる一方で

twitterとかを書いている人がブログを書き始めると①をすっとばして②からスタートする人もいるかもしれない。

ともかく、読者を意識し始めると、当然意識がそっちに引っ張られる。

そうすると、書くという行為に制約が発生する。

何でも自由に書いていいわけじゃなくなり、読者が嫌がりそうなことを書きにくくなるし、読者が喜びそうなことを書こうとする。

何か月も、何年もずっと長期的に続けていくという点だけに絞って言えばこの点は確実にマイナスだ。

書く範囲やテーマを絞ると、その範囲内でネタを絞り出すのは結構しんどくなる。

書きたいことはいくらでもあるけど、読者の人は興味なさそうだなと自重し始めるとだんだん窮屈になって行くだろう。


一方で、「自由に書けと言われる方が困る。制約があった方が書きやすい。テーマを絞ってくれた方が書きやすい」という人も出てくるはずだ。

「これについて書け」と指定されたほうがインプットも集約しやすいし、読者もイメージしやすい。

制約があった方が書きやすいが、制約の範囲内で考えるとネタ切れのリスクがある。

どちらがいいという話じゃないが、ネタが尽きてきたときにこの「制約」の事は忘れないようにしたい。

このブログは雑記ブログなので、とりあえず「何を書く」って決めてないので何でも書くようにしてるので

とくに代わり映えのない人生を送っている私でも、書くネタが尽きるということは全然ないです。


③さらに読者層が固まってくると、自分の自分の考えや「癖」をストレートに表現できるようになってくるが、過去の自分に矛盾したことは書きにくくなる

このあたりはニワタマだけれど、ブログで文章を書き続けてたら、自然と「自分の思考の癖」みたいなのを開示することになって行く。

というよりも、書き続けている「自分にはそういう思考の癖があったのか」って自分でも発見するという感じだ。

自分だって自分の事がよくわかってない。書き続けるからこそわかるってところがある。

で、何度も書いてると、そういう自分をちゃんと把握できるから、把握した上で読者の人に提示できるようになっていく。

このあたり、最初からできる人もいるんだろうけれど、少なくとも私は最初は自分のことが自分でもよくわかってなかったからブログ書いててよかったと思う。

まぁその分「書き手の主観」が強い語りが増えてくるので、めちゃくちゃ好き嫌いが分かれてくるだろう。

なので、この辺りからは自分の文章を好きだと言ってくれる人のためだけに文章を書いた方がいい気がする。


普通の人は③でとどまるのが幸せだと思う。  

私は自分が③どまりの人間だと思ってる。

でも、ここでとどまっているからこそ、毎日のようにブログ記事を書いて更新できる。

私はもともと、私という人間を把握できて、それを共有できる人がいれば満足だったから特に不満はない。



④本来「金を払って読むべき文章」は③まで乗り越えた上で、さらに莫大なコストをかけて作られている

ここから先が「文章で飯を食っていく」という目標の人が目指す領域となる。


つまり、①~③までの基礎はできているのは前提として、さらに

・確実に事実チェックを行っており

・文章構成もしっかりしており

・さらに「体験」に裏付けられた価値がしっかり込められている。

(・さらに文章から感じられる作者の人柄が好ましいものであればなおヨシ)

そういうものが必要となる。

その人が試行錯誤したり、読書を重ねたり、旅行などの体験をして得たものを面白く、平易に、事実の裏付けもしっかり行った上で書かれた文章。

こういう文章は文句なしに「金を払って読むべき」文章といえるだろう。

はてな運営が「有料記事」のサンプルとして差し出してきた記事もだいたいこのイメージを打ち出している。

本来はこういう記事に金が支払われるべきなんだよなあ……。




しかし「金を払って読むべき文章」が書けない人でも、有料化機能やサブスクはやっても構わないし、やってみたら応援してくれる人はいる

なぜかというと、「こんなもん毎日書けるか!」というくらい膨大にコストがかかるからだ。

しかも、今の読者は価値あるものにお金を払うという感覚があんまりない。

こういう膨大にコストがかかってる記事に対して正当な報酬を払おうとはだれも思ってない。。

無料で読めるのが当たり前と思っている。

「価値ある記事を手間暇かけて作ることで、それにお金を払ってもらう」というモデルはとっくに昔に崩壊している。

じゃあどうするかというと「価値のある記事を無料で読ませる」「人気が出てきたら、応援の名目でサブスクに登録してもらう」という形になっている。結局これしかない。 サブスク登録した結果読める記事は、無料記事より質が高いかというとそんなことは全然ない。それでも、なぜかサブスク登録した人は喜んでいる。読者は「コンテンツの質」に対してではなくて「作者」に金を払うのだよね。


これは本来いびつな形だと思うのだが、現実問題として読者の側がそういう風な金の払い方をヨシとしている以上、文句を言ってもしょうがない。



それに、価値ある記事を書ける人には申し訳ないけれど、この形なら、「金を払って読むべき文章」を書く力がない私でもチャンスがあるのがありがたい。

私は途中で書いたように、「金を払って読むべき文章」を全く書けない。私が文章をいくら書いても0円にしかならない、これが本来のあるべき姿だ。
実際、だれからも「よしきくん、お金払うから文章書いて」って声をかけられたことはないです( ;∀;)
覆面でライターの仕事をしてたことはあるけれど、少なくともこのブログを見て「こいつは金を払って読むべき文章を書ける人間だ」とは誰一人思わなかったというのが厳然たる事実なんだよ。

でも、そんな私でも、noteで有料記事書いたらそこそこ売れていたし、サブスクやってみたらけどちゃんとお金払ってもらえている。サブスクで得たお金でゲーム買ったり、「テレビ東京BIZ」のサブスク入ってみたり、本を買ってみたりして、その感想を書いて還元したりしている。そういう感じの双方向のやり取りができる。これが結構楽しいのだ。


長々と書いてきたけどこの文章で言いたかったのは2点です

①「金を払って読むべき文章」には敬意を。可能であれば金も払うべき!

②別にそういう文章書けなくても有料記事機能とかサブスクはやってみるといいと思うよ!


今の世の中、とりあえず記事を書き続けることさえできるなら、何かしらそこに価値をみとめてくれるひとがいる。

だから、みんなもとりあえず一生懸命記事書いて、有料化部分を儲けてみたり、サブスクをやってみるといいと思う。

特に③の段階にいる人たちは絶対に一度試してみたほうがいいよ!(理由は有料部分で書いておきます)

自分がどの段階にいるのか考えて、試しにやってみよう!

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