http://www.nicovideo.jp/watch/sm23267427
謎の感動。
ただでさえ、クソ○○を批評するからには否定的な論調になるのは必然であり、やむをえない。
また、クソ○○は徹底的な検証が難しく、クソさ競争への特化にリスクがともなう。
だからこそ「笑いに昇華する」という理念を今一度大事にするべきであろう。
クソ○○カーストで最上位ではなくともある程度柔軟に受け入れ、エンターテイメントに変えて負の感情を払拭せんとするのがKOTYeの独自性である。
「ネタスレだから」を免罪符に
気に入らないものを罵倒するだけでは、否定自体が目的となって公開処刑ごっこに堕しかねない。
無と負がはびこる不毛のクソ○○にさえ、見た者に興味をも覚えさせる笑いを花開かせて「ネタスレだから」と胸を張る。
KOTYeはそんな紳士の集う社交場であり続けたい。
最後に、クソ○○を掴んだ怒りや哀しみにとらわれたとき思い出してほしい言葉を、KOTYe2013の結びとして贈る。
「――果たして、無事に明日、クソ○○に克てるかどうかは、誰にも分からない。それなら、この場所で会いましょう。」
クソゲーに対する心得。 人生というクソゲーを考える際にもヒントにしたい。
とりあえず、ツライことがあっても、それを笑いに変えられる考え方ができるといいな、と。
そのうえで、それを共有できる場や人のつながりがあるとより幸せかもしれない。
みんな、だから他の人の繋がりを求めるのかな。 「部室」を求めるのかな。
余談。
私は今まで「ためにする議論」というのが嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いだったのです。
なぜかというと、こういう議論は、論理的にみると総じてクソだからです。
でも、誰かを叩いたり自己正当化ったり、間違った方向に煽るためでないならいいんじゃないかな、と。
「ためにする」の目的によっては、アリというか積極的に楽しんでいきたい気になってきています。
「負の感情をいだきそうな不条理を、自分の中で笑いや前向きな意識に変える」ためとかだったり
「心が挫けそうな挫折や苦しみの体験を、なんとか飲み込もうとする取り組み」のためとかだったり、
「日常の謎や疑問を、面白おかしく解釈することによって、日々を楽しむため」とかだったら、
それは悪いことじゃないどころか、とっても面白くていいじゃないですか、と。
そして、ブログって、そういう営みのほうが多いんじゃないかなとようやく気づき始めました。
誰も彼もが、話題のトピックについて意見を、主張をすることが目的じゃない。
むしろ、それはブログ全体で言えば、ものすごく限られたエリアの話。
はてなブックマークの中心区画だけの話かな、と。
大半は、みんな自分の日常や精神世界をより楽しむためのいろんな工夫をしていて、
そのログを残してるのかなーと思うと、ちょっと見方が変わってくるかも。
とりあえず「意見」「主張」として判断し、論拠や筋道の正しさをチェックするなんてのは楽しくないな、と。
うーん。我ながら、はてなに毒されすぎやでー。