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アメリカン・スナイパー

見ました。

イラク戦争における戦場を、一人の「レジェンド」の視点を通して描写する作品。もちろんイーストウッド監督の作品なので、感情移入したヒーローが悪役を倒してスッキリ、みたいな展開にはならない。


とにかく見ててしんどい。これは描き方の問題だと思う。


「グリザイアの迷宮」やら「Rewrite Terra編」でも似たようなものは見た。むしろ状況だけみたらこちらの二つの作品の方が過酷かもしれない。けどこういう作品はやはり「物語」であり、なによりエンタメである。我慢して最後まで見てたら、ご褒美としてのハッピーエンドが待っているし、途中途中でもちゃんとアメとしてコメディや女の子が用意されている。なにより主人公という明確な指針が有る。感情移入しやすいよう作られた主人公に沿って物語を読めば良い。親切だ。



一方、「アメリカン・スナイパー」は、現実の人間をベースとしていることもあって、、エンタメ向きの作品と違い、我慢してみたところで、ご褒美としてのハッピーエンドは約束されてない。結局最後も物語のような救いはなく終わる。

そもそもこの作品のベースとなっているであろうアメリカ人の感覚もよくわからない。

また、この作品は、とにかく主人公に焦点をあてるつくりになっているのに主人公に感情移入できない。感情移入すると消耗していくだけである。


肝心の戦場シーンはまったくワクワクドキドキするようなものではない。
①遠間からの狙撃で一方的に撃ち殺す。その中には敵とは言え女子供もいる。見ていていやな気分になる。「武器を捨てろ、クソガキ…」と祈りながら子供にスコープで照準をあわせるシーンとかすごくツライ。
②また、民家に押し入って住民を尋問し、怒った町の住人から追い回される。
③仲間は目の前で遠方から撃ち殺される。
④撃ち合いになって勝利したと思ったら敵のどまんなかで包囲され、命からがら逃げ延びる

そんなものばっかりだ。勝利のカタルシスなんて無い。


主人公は「祖国のため」「家族を守るため」という強い意志でこの乾いた戦いを続行するが、同じく軍に志願した弟は早々にリタイアする。見ているこっちも途中で「くそったれ」という気分になっているが、主人公はそれでも戦い続ける。ここらへんから、妻と主人公だけでなくて、視聴者である私と主人公の距離も離れていく

そんな主人公は戦地を離れた日常においても常に緊張状態にある。何かに怯え、愛する妻との心は離れていく。退役後もPTSDに悩まされ、ストレスで血圧が下がらないため眠れぬ夜を過ごす。

「なぜここまでして戦うのか」という問いに対して主人公が作品中でいう答えもなんだか虚しく響く。目の前ではその守りたいものが涙を流しているのだから。

とても「レジェンド」の物語とは思えない。むしろ負け犬の物語のようにすら見える。

それでもようやく日常に復帰して、さあこれからと思ったところでのラスト……。

「③現実は非情である」「ところがどっこいこれが現実です!」みたいな言葉が浮かぶ。





見終わった後は、ただただ疲れたな、と思った。この作品、どう受け止めたらいいのかよくわからんと思った。こういう作品、どう見たらええんやろうか。

(ここまでが私の感想)



というわけで、論点整理されてる記事読みました。

ノラネコの呑んで観るシネマ アメリカン・スナイパー・・・・・評価額1800円

アメリカのゼロ年代は戦争の時代だ。2001年の同時多発テロの衝撃から火が付き、アフガニスタンからイラクへと燃え広がっていった戦争は、アラブの政変などの影響を受けつつウィルスの如く変異を重ね、いまだにその出口すら見えていない。ゼロ年代に入って「硫黄島二部作」で第二次世界大戦を、「グラン・トリノ」で朝鮮戦争の帰還兵を描いたイーストウッドは、現在進行形の21世紀の戦争をどう料理するのだろうか。

『アメリカン・スナイパー』 それは違うよ、モハメッド :映画のブログ

本作は、この戦争がイスラームキリスト教といった宗教間の争いに見えることを慎重に避けている。

だいぶスッキリした。

こういう記事と合わせてみることでようやく自分の中でこの映画見たなーって気分になりました。

満足。



余談

永遠の0」と対比してる記事がとても面白かったので、ぜひ読んでみてください。「アメリカン・スナイパー」をきっかけにしてこの記事読めただけでも元とれた気分っすわ。

『永遠の0』vs『アメリカン・スナイパー』 三つの危うさ :映画のブログ

①「負け戦否定」「無能な指揮官による戦争の否定」に止まり、むしろ「勝ち戦肯定」「有能な指揮官下による戦争の肯定」になる危険性

永遠の0』の作り手も『この空の花 長岡花火物語』の作り手も、戦争に反対しているつもりかもしれません。次は勝とうと発破をかけるつもりではないかもしれません。しかし、これらの映画は、戦争反対という教訓だけでなく、負け戦を繰り返すまいという教訓を引き出される可能性を潰せていません。今度は勝とうという方向に議論が流れる可能性が残されたままになっています。これを私は反戦を訴える映画だとは思えません。負け戦の惨めさ、悲しさから説き起こしている限り、今度は勝とうという教訓に結び付く可能性が少しでもある限り、それは「戦争反対」ではなく「負け戦反対」です。『永遠の0』に危うさを感じる原因の一つはここにあります。

②死者を惜しむことと悼むものの区別を誤ると、死者を肯定するあまり戦争も否定しにくくなる
自己犠牲を称えるのは、サンクコストを重視するのと同じです。サンクコストを考慮してはいけないのに、犠牲の尊さを強調すればするほどサンクコストの呪縛に囚われて、やめることができなくなります。
永遠の0』の観客は、先の戦争で死んだ者たちを惜しみ、今の生活が彼らの犠牲の上にあると痛感するでしょう。その感情は尊いのですが、将来を考えるときに過去の犠牲を考慮しては判断を誤ります。『永遠の0』は感動作であるだけに、判断を誤る方向に押しやる力が強いのです。死者は悼むものであって、惜しむものではありません。『永遠の0』に危うさを感じる原因はここにもあります。


大切なのは、今の生活が兵士の犠牲の上にあるなどとは少しも強調しないことです。戦争の英雄だった主人公は、サンクコストの呪縛や過剰な帰属意識から自己を解放していきます。『永遠の0』とは正反対ですね。

③「システム1」(乱暴に言えば感情面)で描けることしか描かない
映画『永遠の0』でも、人間は日本人しかいないかのごとき描き方で、米軍、米兵は主人公を脅かし、主人公に殺される記号でしかありません。米兵の人間性は『SPACE BATTLESHIP ヤマト』の異星人以上に徹底して剥奪され、まともなセリフもありません。近年、これほど一面的な戦争映画も珍しいと思います。 システム1で処理できることしか描かない。これもまた『永遠の0』の危うさです。

『アメリカン・スナイパー』は映画の節々で観客に推論と考察を要求し、号泣するような感情のたかぶりや、敵愾心を燃やすことを許さない

<まとめ>
おそらく映画『永遠の0』の作り手は、意図的に戦争を賛美しようとは思っていないでしょう。巧妙な計算を巡らせたりせず、ごく素直に素朴に、人間のまごころを映画にしたのだと思います。その気持ちが本物だから、多くの観客が共感し、感動したのでしょう。『永遠の0』に涙した観客に、戦争を賛美するつもりはないに違いありません。でも、それだけにこの映画は危険です。この映画にはシステム1の暴走を止める仕組みがありません。負け戦に反対し(次は勝とうと決意し)、過去の犠牲にこだわり、自己犠牲を称賛することへの歯止めがありません。にもかかわらず感動させ、感情をたかぶらせてしまいます。それが、この映画の危うさの正体だと思います

これは、「永遠のゼロ」批判というより、最近の「妙に先鋭化してる印象が強いフェミニズム」やら、「感情で良いものと悪いものを区別しようとする」発想やら、私の大嫌いな「本音至上主義」「自然至上主義」を考えなおす際にとても重要な視点だと思います。

例えば、フェミニズムの主張を「良いものと悪いものに切り分けよう」とする姿勢については、戦争反対において以下のように批判されるものと同じ態度であると感じられます。

「負け戦だからやらなきゃ良かったって云うのか。じゃあ勝ってれば良かったのか。違うだろ、勝ち負けに関係なく戦争しちゃいけなかったんじゃないのか。」

戦の巧拙への評価と、戦争そのものの是非は別。議論の雑さへの批判と、フェミニズムとしての善悪の違いは別物。





システム1が悪いわけではない。自分の身の回りのこと、良く知ってる身内との関係などはむしろシステム1で対処したほうがよいと思う。むしろそういう場であまりシステム2ばかり考えてるとしんどい。友達との会話やフリーゲームの感想などはどんどんシステム1を活用すればいい。小さくて近くて具体的な話はどんどんシステム1活用したらええんやと思う。

でも、社会論やら教育論ニュースの話題のような、大きな問題だとか、よく知らない他人について語る場合は、システム1でしか思考・行動できないのは危ない。そして、そういうのを煽る人は有害であると思う。遠い問題、抽象的な問題、大きな問題を考えるときは別の思考がいると。

愛は勉強にまさるか、確かにそうだよなぁ。いくら数学をこねくり回しても本当に大切なことは方程式には出てこないよな。だが、だからこそ勉強には意味があるんだ。例えば虚数のアイは現実世界には存在しないが、複素平面に表せば座標という形で示すことはできる。眼に見えないものを見えるようにするという学問の意義を感じて欲しいんだなぁ。 (「変態王子と笑わない猫」2巻)