「たとえ私を倒しても、いずれ第2第3の魔王が現れるだろう」
— 内田 (@soug143S) December 12, 2015
「なんだと…」
「でもそいつらを見てもなんかしっくりこなくて、やっぱ最初の魔王が一番よかったな…ってなるから」
「なんだと…」
「でもそうなったお前のそばに私はもういないから」
「なんだと…」
マッチョウィンプ論争は滅びぬ、いずれ第2第3のマッチョ野郎や、無責任な煽り野郎が登場し、再びマッチョウィンプ論争が起きるだろう
全く無駄なことを論じている人たち
きっかけは別のところにあった。運動音痴だから足手まといだという扱いだったり、成績がよくて生意気だという扱いだったり、DQN憧れの男の子の彼女だからだったりした。もちろんきっかけが「オタクだから」というケースもあるんだろう。でも、それはこういったきっかけのワンオブゼムでしかない。それを、民族差別や女性差別と並べるのは、視野が広い人間ではなくただの雑な人間だ
「オタク差別」があるのではなく「キモい人差別」があるのだと認めろ
「それはオタク差別じゃなくてお前がキモいだけだよ(笑)」 - Togetter
ちなみに、上の3つの記事についての感想は
「あ ほ く さ」「やめたら、この議論?」
何でも言うことを聞いてくれるアカネチャン (せやな)とは【ピクシブ百科事典】
です。
「え?あほくさいと思ってるのに何でその話するの?」って思った方いるかと思いますが、理由は簡単です。「自分語りのネタとしてちょうどいい」からです。というわけで、この話をダシにして自分語りします。私というキモオタに興味がある方がいたら聞いてください。逆に言うと、自分語りしかしないので、私に興味がない人が聞いても時間の無駄です。
リスナー数がゼロでも泣きながら30分くらい語ります(´;ω;`)
かつて「マッチョとウィンプ」論争があった。
上の記事で盛り上がってる人たちに言いたいことは
「お前らね、それ差別に関する話だと思ってるかもしれないけど2008年くらいにさんざんやったマッチョVSウィンプ論争を繰り返してるだけだから。再発明するの時間の無駄だから過去アーカイブ見ろ」です。
当時のテーマは「ロスジェネ差別」でした。
たまたまこのタイミングで就職活動をしなくてはならず苦しい思いをしたり、職を失って路頭に迷ったような人たちをどう扱うべきかという議論で盛り上がった。
当時はリーマンショック前夜で今よりはるかに景気が悪く、ロスジェネの方を中心に文字通りの意味で「生きるか死ぬか」に関わる状態の人もいたから、切実なやりとりが結構見られた。
今と違って、SNS的でのつながりも当たり前ではなく、twitterの発言が話題になるようなことも少ない時代頃に「いかに弱者が連帯するか」が話し合われたりしていた。
そこそこの幸せのために譲らず、お互いの足を引っ張り合っているのはウィンプたちである以上、そう結論せざるを得ない。これだけは確か。じっとしてても、ウィンプのまま。
当時のネットはまだtwitterがメジャーではなく、逆にトラバ全盛期だったから、発言するためのコストが高く、いいかげんなことを言えばマジレスがガンガン投げらつけられた。
この当時のやりとりを思えば、はてなブックマークなんて手斧などと呼ぶに値せず蚊やイナゴといえる。
そういう状態では「ネトウヨ」と「リベラル」の対立ではなく「リバタリアン」と「リベラル」が争っていた。ネトウヨは一段レベルの低い存在として、数だけは多いが相手にする価値がない一段下の存在として見られていた。
「自分で何とかできる、すべき」と主張するマッチョの人たちと、「当事者たちだけではどうにもならない問題」ウィンプの人たちはその違いを自覚しなければ決してかみあわない
さて脱線してしまったので話を戻す。マッチョウィンプ論争の話ね。
古の時代、力こそが全てであり、鋼の教えと闇を司る魔が支配する、ゼテギネアと呼ばれる時代があった。
簡単に言うと、上の人たちは「マッチョ」寄りの人で、これに反対している人たちは「ウィンプ」寄りの人。
つまりマッチョの人は「それは自分で解決・克服できる問題なんだから個別になんとかすればいい。自己責任だ」と考え、ウィンプの人は「その考えでは自分で解決する力を持たない弱い人たちから死んでいくじゃないか。その人たちについて無視するのは無責任だ」と考える。
上の記事についてるブコメでいうとこのあたりが「ウィンプ」寄りの意見*1
kazatsuyu この理論で行くと「オバマは黒人だけどイケメンでしっかり働いていて妻子を持ち年収1000万以上だから差別されていないので黒人差別じゃなくてキモい黒人が差別されているだけだ」みたいな感じになります
Ta-nishi 属性差別ってのは、シミュレーションRPGの「地形効果」。パラメータが高い個人なら相殺できて、「○○だけど差別されない人」になれる。オタクもマイナス補正かかるなら差別属性。最近、だいぶ補正値改善されたけど。
んで。
こうなった時どう考えるべきかというと、これはどっちが正しいという問題ではなく、同じ問題を語っていても何を重視するかで受け止め方が変わってくる。つまり、それぞれの問題について、「自分はどっち側の立場なのか」「自分はどっちの役割を果たすのか」を選択することが出来るし、しなければいけない、ということ。「経営者」側の立場を選んでおきながら「従業員」と同じように保護されることを求めることはできないし「従業員」に対して「経営者」と同じ責任を求めることも難しい。そういう話。
そのあたりピンとこないという人は「ヴィンランド・サガ」の13~15巻あたりのやり取りを読めばいい。「クヌート王」と「トルフィン」のやり取りに、みんなが話してる内容って全部ここに集約されてる。
というわけで「考え方」「アプローチ」が違うのだからそれを自覚してすみわけというか「役割分担」をすればいいのだけれど、どうしても放っておくと「ウィンプ側の人が大きくなり分を越えて要求をしてそれに対してマッチョな人がついつい口を出して争いになる」(今だとフェミニズムの人たちが目立つね)とか「マッチョ側の人が愚痴でウィンプの人を馬鹿にする」(ZOZOの田端さんなど)ってことを繰り返してるんだよね。
上の3つの記事も、「マッチョ」が人種の違いを無視して、自分の理論を押し付けてるだけであって、それだけでは意味がないと思うのね。
こういう不毛な対立って、いくらでも具体例が思いつくでしょ?例えば学歴問題とか、文化資本問題とか、貧困問題とか、保育所問題とか、男女問題とか、残業問題、政党支持の問題とか。こうした問題について、前提の違いを考慮せずに「自分にとっての正解はこうだ」って語ったところで、ただの自分語りでしかない。自分語りでしかないのに3つの記事とも自分を隠そうとして、社会を主語にして語ってしまっている。これはただの欺瞞に過ぎず、だから上の3つの記事は無駄になる。
話が逸れるけど、私は当時非モテやロスジェネの問題については「ウィンプ」寄りだった。特に「要は勇気がないんでしょ」のguri_2さんについては「絶対に許さない。絶対にだ」、という設定にしている(実際はもう全然怒ってはいないし、guri_2さんとは一度お会いしてお話をお伺いしてみたいなぁと思うくらいだけど)。
これらの議論から派生して「ロバストネス」や「レジリエンシー」「マインドフルネス」といった考え方が提示されてたけど、なんか7~8年経ってから取り上げられてて、やっぱり当時のはてなはかなり進んでたなぁと思う。 今のはてなは、逆に周回遅れなことを一生懸命議論してることが多いように思うので本当に残念ですわ。
私とオタクについて
さてここからが本題。ここまでの前置きは読まなくてもいいです。
私個人としては「オタク」問題に関してはややマッチョ寄りの考え。
私はこれが正解だというつもりはない。上で述べたように私は「自分に関しては」こっち側の考え方を選択するよ、というだけ。他人に対してこの考え方を強制するつもりはない。
では、なぜ「ロスジェネ」問題ではウィンプ側を選択したのに「オタク」問題ではこちらを選択したか。
これはとても単純で、私はあんまりオタクであることによる強い差別や抑圧、それにともなうコンプレックスを感じた経験が少ないから。
私はオタク趣味に触れ始めたのは大学生になってからでありアニメを見始めたのは「AngelBeats!」からとさらに遅い。なのでエヴァとかそれ以前の作品は全然リアルタイムではない。
私はその前からぼっち気味で、友達は数人しかいなかった。小学校低学年の頃はいじめられたこともあったけれど、それはどちらかというか自分がもともと自閉症寄りの発達障害だからだ。オタクになる前からコミュニケーションは大の苦手だった。
オタク趣味も「格闘ゲームが好きで格ゲーやってたら、大学の同期に『QOH』という同人格ゲーを薦められ、これにはまってたら、いつのまにかいろいろとエロゲーを押し付けられていた」みたいな感じだ。「家族計画」という作品が生まれて始めてプレイしたエロゲであるがこのゲームが個人的にとても好みで沼に沈められたという感じだ。*2
大学までは、マンガなんて姉が持っていた少女マンガと「CITY HUNTER」以外はほとんど家になかった。「椎名あゆみ」さんや「吉住渉」さん、それから「TONO」さんや「樹なつみ」さん、「田村由美」さんの作品を何回も繰り返し読んでたけど、とにかく数という意味で言うと全然読んでなかったし、何が人気かも全然知らなかった。
なので、オタクになり始めたころにはもう自意識はある程度固まっており、オタクというのは私というアイデンティティにとってはあくまで一部であってご主人様ではない。ただオタクになる前からずっとぼっち気味で、他人と話すると非常に疲れやすく、一方で自分で本や歴史を読んであれこれものを考えるのが好きだったから、オタク向けのコンテンツはとても相性がよかった。
自分はオタク趣味に触れ始めたころは、そもそも他人から勧められたこともあって孤独とか抑圧みたいなのをそれほど感じることはなかった。 そんなわけで、私は自分についてオタクになろうがなるまいが「ぼっち」だったという自覚があるし、オタクが差別されていると感じたこともそれほどない。
こういう人間からすると「オタク」ってのはあくまで「自分の選択」なのだ。栗本薫の「コミュニケーション不全症候群」やに描かれているように、「やむに已まれぬ結果そこに行きつかざるを得なくなった」みたいな深刻さは全くない。だから「楽しいからオタクやってるけど、楽しくないと感じたらやめよう」と考えられる。むしろ「せっかく趣味でオタクやってるのに楽しくなさそうにしてるやつはもったいないなぁ」って考えてしまう。
だけど、私と違った形でオタクとして生きてきて、もっと切実にオタクというものをアイデンティティの拠り所としてる人はいる。そういう人に対して、自分と同じ感覚を押し付けることはあってはならないと思う(イキリオタクというか、自分を守るために他人にマウントしちゃったオタクはだめ。先に他人の領域を侵犯してしまったら反撃されるのは当然)
オタク生活は一生続くと思ってたけどそうでもないっぽい
そんなわけでなんだかんだずっとオタクライフを楽しんできたのだけれど、そんな私もオタクとしての寿命はもうすぐ終わりかなって思ってる。「ランスシリーズ」が終わってからは、以前のように素直に楽しめなくなってるところある。今期はアニメほとんど見てないし。むしろシロクマさんの言うように古い作品のリバイバルを喜んでる始末。もう完全に枯れかかってます。
そんなわけで、そう遠くない将来オタクライフやネット巡回なんかはさらに減っていってもうほとんどなくなっちゃって。何人かの友人と懐かしむようなものになっちゃうと思うんだけれど。
そうなる前に、いろいろと自分より若い世代の人に、自分が「良かった!」「名作だ!」って思った作品を伝えられたらいいなとか思ってます。おっさん通り越して心境としてはおじいさんですね。
追記1 この切り口は、あらためて考えていく価値があるのかもしれない(まだ検討中)
https://www.buzzfeed.com/jp/seiichirokuchiki/rethink-cafe-
この記事はマッチョウィンプの話とは違うけれど、意見がわかりやすいタバコの問題だ。考え方の前提が違うことを了解しあって、選択の問題とした上で、朽木さんは選択肢となるためにどういった行動が必要かを語っている。単に極論ぶち上げたり逆張りしたり、雑なフェミニズム漫画上げて議論が深まったろうをしてる人たちは是非読んでほしい記事だ。極論そのものが悪いわけではないが、それだけでは一つの選択として検討されるようにならないことがわかる。
選択の問題にできるだけでも、選択できる複数の道があるだけでも、その選択を用意するために努力してくれた人に敬意を払いたくなりますね。
泣くのを「我慢すればいいだけのこと」と感じている人からすれば、泣いてしまう人は「その我慢ができない弱い人たち」と思われているという、認識の違いを思い知らされたのでした。
双方が思いやる行動が大切としつつ、「泣く側がなんとか対策を打つ方が相手のストレスを生まずに済みます」
HSP問題については私も記事書いたことある。
このあたりって、受け入れる必要は全くないと思うんだよね。争いになるくらいなら距離を取ればいいと思う。差別に対する「ゼロトレランス」的な姿勢はまだ早い。それだとリソースが足りなくて自警団という名のモヒカンどもが暴れるだけだ。
余談として男女問題について
テレ朝記者「セクハラ告発」に舌打ちしたオンナ記者もきっといる
こういう記事がありましたが、まぁなんというかその。「ビッチ VS スラット」問題ですね。
この問題についてはあんまり煮詰まってないので、記事としては書かないけれど、女性で言うなら「ビッチ」と「スラット」という分類を理解した上で、第三の道を模索していくアプローチとか面白いんじゃないかなぁって思ったりしてます。最近フェミニズムについてちょろちょろ記事を書いてましたが、これもそろそろ〆ていきたいですね。