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「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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「ホテル・ルワンダ」メモ

観終わりました。現時点では知らないことが多すぎて語れないのでさらにいろいろ読むためにメモ。

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彼らはこの映像を見ても、怖いねというだけでディナーを続ける




映画自体についてはこちらのページなど。
http://www.asahi-net.or.jp/~AN4S-OKD/okyda/eiga/030047.html

・1959年のルワンダ王国の国王であるムタラ3世の死を契機にツチ族とベルギー当局の関係が悪化し、ベルギー当局は国連からの関係改善の勧告を無視して社会革命としてフツ族による体制転覆を支援。この結果、ツチ族は報復を恐れて近隣諸国、特にウガンダに脱出し、1962年にルワンダは正式に独立し、フツ族のグレゴワール・カイバンダが初代大統領に就任。
ホテル・ルワンダの主人公であるルセナバギナは自伝において、1959年の万聖節に起きた暴力事件に端を発した犯罪への「免責」の文化が、ジェノサイドの原動力となったという私見を述べた。


・バビャリマナは大統領に就任。彼は種族融和政策を採り、ツチ族は政治活動に関与しない限りは弾圧されず,経済活動は推奨され,政府と良好な関係を持つツチ族の有力ビジネスマンも出現し、フツ・ツチ間の通婚も進み,両者は共存



・国外脱出をしたルワンダ人ツチ系難民の子弟が、長期にわたり、難民キャンプでの生活を余儀なくされ、彼らはバニャルワンダと呼ばれ差別されてきます。そしてソチ系難民の多くの者が、ウガンダ内戦で反政府軍側について戦い、その勝利に貢献。内戦が終結すると、彼らは1987年にルワンダ愛国戦線(RPF)を組織して、ウガンダを拠点に、ハビャリマナ政権に対する反政府運動を活発化。1990年以降、ルワンダ帰還を目指したRPFとルワンダ政府の間で紛争



・約100日間のうちに、当時のルワンダの総人口約730万人中、およそ100万人が殺害されたとみられており、虐殺はこの勃発を受けて侵攻を再開したRPFがルワンダ全土を掌握したことで終息し、フツ族のパストゥール・ビジムングを大統領、RPFのポール・カガメを副大統領とする新政権が樹立された



・虐殺終結当時は副大統領だったポール・カガメが2000年に大統領に就任。それとともに内戦時代に海外に脱出したツチ族の200万人近く帰国し、海外で習得した様々なスキルで国の復興に尽力しており、21世紀に入り顕著に近代化が進み、この現象を指して「アフリカの奇跡」と呼ばれている

独立の際にも、フツ族によるかなり血なまぐさい粛清や反乱が起きている

グレゴワール・カイバンダ - Wikipedia

カイバンダがツチに対してとった政策、特に政治関係の政策は過酷なものだった。 カイバンダのとった政策は、存在自体は寛恕するが、ツチは市民生活の空間に閉じ込め、 政治的空間・行政の要から排除するというものだった。 ルワンダ大虐殺事件直後の論調は、ハビャリマナ政権の独裁性、ツチに対する差別性を非難するものが多かったが、 その後の研究では、むしろハビャリマナ政権の方が国内宥和を尊重しており、 カイバンダ政権の方が民族差別がひどかったと考える研究が増えている

大統領不在の中の混乱の中で無秩序な虐殺ではこうはならず、かなり組織化された殺戮が行われた。そのうえで反乱軍によって3か月で敗れることになった

大統領が暗殺された翌日に首相もすぐに殺されている。
アガート・ウィリンジイマナ - Wikipedia

ルワンダでは初にしてこれまでのところ唯一の女性首相である。ウィリンジイマナの政治的キャリアは短かったが、アフリカにおける数少ない女性政治家の魁の一人だった。

・ウィリンジイマナと彼女の夫は自分らの子供たちを護るためにジェノシデールに投降し、子供たちは隣接するUNDPの職員宿舎に匿われた。

アカズ - Wikipedia

研究者によれば、1994年に引き起こされたルワンダ虐殺の基礎となったフツ・パワーのイデオロギーや、ルワンダ虐殺における人道に対する罪は、アカズが自身らの権力を維持するためのものであったという[4]。1993年のアルーシャ協定の成立による権力基盤の喪失を危惧したアカズは、同協定の交渉や締結に対して強く反対したほか、ルワンダ虐殺のジェノサイドでも主要な役割を果たしたことが明らかとなっている


ジェノシデール - Wikipedia
ルワンダ国際戦犯法廷 - Wikipedia

ジョルジュ・ルタガンダ
インテラハムウェ全国委員会第二副議長で、インテラハムウェの設立に関わったほか、公立技術学校の虐殺などに関与。1996年5月に開始されたルワンダ国際戦犯法廷で、ジェノサイドおよび人道に対する罪により起訴され、同法廷の被告人第一号となった[10]。同裁判の判決は無期懲役

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民兵」の組織や「ラジオ」による扇動の影響は有名だが、作品中に出てきた「インテラハムウェ」ってのがこの民兵組織。
日本語字幕では一切この名前が出なかったので、これなんじゃろってずっと思いながら聞いてた。



オギュスタン・ビジムング - Wikipedia
作中にも出てきたビジムング将軍は、虐殺終了後に大統領になったパストゥール・ビジムングとは別。実際のビジムング将軍は、積極的にインテラハムウェを指導・指揮していた。こういう人間に抵抗せず、むしろあえて積極的に取り入ることで、ギリギリまで人々を守った主人公の精神力があらためてすごい。

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また、宗教絡みで、カトリックの司祭がイスラム教徒の虐殺に加担するなど、別の救えないストーリーもあったらしい。

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ミル・コリンホテルと違い、こちらは国連軍が撤退した後全員が虐殺された。
公立技術学校の虐殺 - Wikipedia

国連平和維持軍のベルギー兵が学校の警護を行っていた。しかし同月11日、国連軍が任務を放棄し撤収したため、その後すぐに児童数百人を含む避難民約2000人の大半がフツ過激派民兵のインテラハムウェによって虐殺された。

ボスニア・ヘルツェゴビナ出身のクロアチア人聖職者で人道主義者のヴィエコスラヴ・チュリッチは、同学校からの退去を拒否した唯一の「白人」であった。チュリッチは虐殺が続く中でルワンダに留まり続け、脅迫にあいながらも公然と暴力を非難し続けた。

こちらは今から続けて映画を見ます。

ニャルブイェ大虐殺 - Wikipedia

フツ系の市長であるシルヴェストル・ガチュンビチ (Sylvestre Gacumbitsi) は、避難先として市内にあるニャルブイェカトリック教会を勧め、多くのツチと穏健派フツが教会へと避難した。しかし4月15日になると、市長はフツ過激派や市民を率いて教会へ現れ、避難民を襲撃、殺害し、略奪を行った。15日の夜には、被害者が逃亡できないように足をナタなどで切断した上で放置し、襲撃者らは宴会を行って一晩休んだ後、翌日になってから再び殺害を続けた

こちらについて書かれているのはこの本。



セリフメモ

ポール・ルセサバギナ - Wikipedia


・無駄です。彼らは私たちを助けに来たんじゃない。

・「君らはゴミ」。君らが信じている西側の超大国はそう思っている。 救う値打ちがないと思っている。
  You are not even a niggar. You are african.

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・俺はバカだな。支配層と同じ身分のつもりで…
 ワイン、チョコ、葉巻、なんでも受け入れた。挙句の果てが、この仕打ちだ。
 贅沢に慣れ、自分を見失ってた。


・ホテル社長はフランス大統領府に連絡して一度は兵隊を撤退させてくれたがそれまで。


・助けてくれる人はだれもいない。 自衛しかない。
有力者とコネがある人間が何人かいた。その人たちを活用する。

 電話を通じて相手と手をつなぎなさい。
 手を離されたら死ぬと伝える。
 ここは難民キャンプじゃない。
 民兵はここが4つ星ホテルだと知っている。
 それが私たちの命綱だ

きれいごとじゃなく賄賂もするし嘘もつく、泣き落としもする
→これによって何名かには出国ビザが提供された。

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・最終的に、ビジムング将軍の介入を引き出して、時間稼ぎ。
 ツチ族の反乱軍がやっていた前線をなんとか突破して生き延びる。

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すべてギリギリの綱渡り。


PKOや赤十字のスタッフなど

(1)PKOは兵力不足だった。

平和維持軍は全土で300人しかいない。
ホテルの警備には4人。
銃は撃てない。

大虐殺の前とその過程を通じて、たびたび部隊の増強を訴えるが、有力国や国連の思惑からその容れるところとならず、惨劇を止められないまま駐留することを余儀なくされる。94年8月辞任。その後ルワンダでの体験から心的外傷後ストレス障害(PTSD)となり、2000年には自殺をはかり、公園のベンチで昏睡状態のところを発見される


(2)赤十字の人たちは必死にできることをしてくれていた。それがラストシーンにつながる