この記事についてはシロクマ先生のコメントだけでいいと思うのだけど。
p_shirokuma やめるやめないはともかく「疲れる」という感覚を覚える余地があるのは、なにごとにつけ、健全なことだとは思う。
この件で「今更?」とか「名誉男性じゃなかったの?」って言って書いてるクソみたいなブコメがあってちょっと引く。トイアンナさんは前からリベフェミ名乗ってたし1年くらい前からフェミニズムの暴走については警句を発していたでしょ……。やっぱり記録って大事だな。
フェミニズムは間違ってなかったかもしれないけど「人」がダメだった
ちなみに上のまとめ、過激なフェミニストとアンチフェミニストの対立が一番激しかった時期でこの時のコメント欄は1000以上ついていましたね。今はその頃よりは落ち着いてますが、その時よりも漠然と「厭フェミニズム」のムードが出てきてる気がします。
もう何度も言ってますが、私はフェミニズム自体が嫌いなわけではありませんが、はてなフェミの人はクッソ嫌いでした。一時期しつこくこのブログにきてコメ残すので見てましたがもう面倒くさいので軒並み非表示にしました。
同様にアンチフェミの人も好きじゃないです。私はそもそも単純な二元論や極論好きですぐ群れたがる人間は軒並み嫌いなのです。
正直私ももうフェミニズムやアンチフェミニズムには近寄りたくない気持ちのほうが強い。そこで「ちゃんと理解しようとしないからだ」みたいに言われたら、普段だったらむかついて勉強しようとするんですが、もうフェミニズムの話題に関してははいはいそうですか好きにすれば?って感じ。フェミニスト全体としては否定的な印象を持ちつつ、個人的にしっかりしてるなと思う人はフェミニズム関係なしにちゃんと読む、という形になっています。
とにかくフェミニストを名乗る人たちに嫌な人が多すぎた。とくにはてなには。もういい加減「ナットオールフェミニスト」で擁護する気も起きない。そもそもフェミニストの方々が「ナットオールメン」を許さなかったわけだしその擁護は求めてないだろう。
一部であっても鉄華団のように「自分の利権のことだけ考えており、かつ暴力的な」集団であったり、フス派過激派のように「自分の教義に合わなければ既存の文化の焼き討ちや破壊を行う」みたいな人がそこそこいる状況だったよね。そういう人たちに対して制止しろとは全く言わないけど、代わりに良い意見を見ることができなければそりゃ当然のように反発を受けるだろ、と。
さらに言えば、これはこれで「フェミニズムはアイデンティティポリティクスの一つである」と割り切って戦ってれば別に正義云々の話にならなかったのに、自分から正義みたいなの語り始めるくせに、自分たちはその正義にもとるような行為をさんざんやってたんだからもう知らんがなと。
自分たちの攻撃はOKで、自分が攻撃されたら大げさにわめくみたいなことしてたら対等もくそもないし、戦ってるのに相手に手抜きを求めてるみたいで何がやりたいのって感じてしまう。そういうことしてたら「威勢はいいけど見込みなさそうだ」って支持を失っていくのは当然思うんですよ。
今って何やっても打ち上げ花火方式で持続性がなく、はあちゅうさんやマルクスさんみたいに炎上でも何でもいいから知名度を獲得しよう。ブームを自分が利用しようって発想の人以外は誰も得しないような流れになってる。社会を良い方向に変えようとする動きと真逆の動きに見える。
こういう人たちがどうにかならん限りは支持しようって気持ちにならない。
kkzy9 「安倍政権さすがにやばくないか?」と内心思ってても「安倍憎し」がキチガイ過ぎて一緒にされたくなくて言い出せない感じ
うん、そんな感じ。
フェミニズムは「不安利権」化することを防げなかった気がする
というか、あくまでネットの話ですけど、もうネットにおいてフェミニズムってまとめブログや、まとめブログ的な行動をとって知名度を獲得したい個人の養分にされちゃってる感じがして、その意味でももう手出しできないなと思ってる。
不安のようなものでも、組織化されると一定の「権力」を帯びるようになる。「利権」と呼んでも良い。不安利権は、やがてビジネスになり、政治的な運動の体を成すに至る。こうなるともはや無害ではない。
復興の妨げになり、差別の引き金になり、ヒステリーの温床になる。
不毛な議論の周辺では、不毛なレッテルが大量生産され、それらのレッテルが思考停止を招く。言葉が発明される。レッテル貼りが横行し、リストが作られる。かくして、議論は死に、論争は南京化し、真実は虐殺される。
https://www.tyoshiki.com/entry/2017/07/11/211040
一度「利権」化すると、は○まやJ○Nブログのような存在によって対立は煽られて断絶が加速していく
メカニズム的には以下の通り。
①特定の事件について、二つの対立する勢力が、互いに相容れない見解をぶつけあっている場合、議論は、空洞化する。歩み寄る姿勢を持たない論争は、平行線どころか、より対立を深める方向で推移するものなのだ。
②特に、対立する論敵同士が、事件を政治的に利用する目的で自説を展開した場合、両者の議論は、両極端に向かってむしろ分裂して行く。論敵がフェアな相手でないと判断した論者は、自分だけがフェアな態度でいると、論争に負けてしまうと考えて、結果、自らもアンフェアな態度で議論に臨むようになる。かくしてディベートは荒れる。証言は捏造され、証拠は隠蔽され、データは恣意的に引用され、テーブルをはさんだ両者は、相手を貶めることだけを目的に言辞を弄するようになる。
③時間がたつと、真相は事件の発生直後よりさらにわかりにくくなっている。わかりにくいだけではない。一般の人間にとっては、その事件に関わること自体がリスクになる。すなわち、「えんがちょ」だ。触れるだけで汚れが感染する、汚染源みたいな話題――○○○○は、既にそういうタームになっている。テーブルの両側に残っているのは狂信者のみ。一般人は一瞥を送ろうとさえしない。
④どちらか一方がウソをついているのではない。両者のいずれもがウソをついている。それも、真実のために、だ。両者ともが、被害や復興の実態を歪曲して伝えているのである。なんということだろう。
大多数はそれほど偏っているわけではないが、どっちつかずの意見を述べたら両陣営からたたかれる段階になったら辟易して去っていく。どっちが先にやりだしたかはどうでもよくて、こうなったときにはどちらも目的を達成できなくなるんだなって感じてます。
こういう記事もあるのね。
常識人は淘汰される? ネットの風潮を左右する”ヤバい人バイアス”とは - トゥギャッチ
フス戦争は、過激派が既存体制と組んだ穏健派(ウトラキスト)に滅ぼされて終わった
フス戦争において目立ったのは過激派のターボル派・オレープ派・シロッツィ・アダム派であるが、これらは内ゲバを起こしたり外部からの援助を受けられなくなって徐々に衰退していった。(ちなみにヤン・ジシュカはシロッツィ)
歴史で勝利を収めたのは貴族勢力を中心とした穏健派のウトラキストであった。
世界を単純に二分化するような人はこれからお呼びじゃなくなってほしい
宗教という横軸だけで見ると、貴族と民衆という縦のラインがおざなりになってしまう。男と女だけで見てる人とかはこれと同じ危険性を感じる。
逆に鉄華団みたいに上と下の関係だけで見てると、それはそれで横のつながりを持たないために滅ぼされたりする。
世界を一つの軸で単純に二分して自分と違う側に憎悪を向けるとかいうDQ1の竜王みたいな世界観の人は、今後の多様化していく社会にとって世界の敵扱いされてもおかしくないと思うので、違ったやり方を模索していってほしいなと思ったりします。
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