「マザーグール」からもう一つ紹介します。
「マザーグール」 絶望的な状況で、それでもあきらめずに戦う女の子たちがすごい格好いい! - 頭の上にミカンをのせる
「マザーグール」自体は、「絶望的な状況でボロボロになりながらもあらがい続ける女の子を描こうとする」気迫が伝わってくる作品なのですが、この作品はそういった作者の描きたい女の子の対比として女の子の弱さもむき出しで描かれています。
それが「Sマリア教団」という宗教を作ってしまった女の子たち。
自分で絶望的な状況と戦おうとすることはできず、祈ったり依存する対象として生きた人間を教祖に仕立て上げ、それを信仰することで恐怖から逃れようとする
無人島で頼るものもなく、油断すると化け物に突然襲われて生きたまま喰われるかもしれない恐怖。この作品の舞台の恐ろしさは、今までお嬢様学校で育ってきた女の子たちの大半には耐えられるものではなかった。
だから、彼女たち(というか環さん)は、現実逃避のため、その場にいないが現実の人間である「ショウコ様」をあがめる宗教を作ってしまう。教義は「ショウコ様さえ信じれば化け物には襲われない」「ショウコ様を疑えば不幸が訪れる」という極めてシンプルなもの。しかし恐怖に耐えきれなくなった人間には非常によく効いた。
なにかまずいことがあったら全部信心の足りなさのせいにして無理やり現実における危機を信仰の問題にすり替えようとした。
彼女たちは、教祖を疑うものが何人か死んでしまったこと(自分たちで死に追いやってますが)により、どんどん信仰を深めていく。
お判りでしょう?私たちの信仰の正しさは!
先ほどの二人の死によって証明されたはず!
そうでしょう!? だってそうでなければ私たちはただの人殺しよ?
虫も殺せぬお嬢様だったはずの女の子たちが、もはや途中からは同級生だったものを殺すことにもためらいがなくなっていく。
こうして局所的に発生した全体主義は、もはや歯止めが利かない。
理性のある人間をリンチして殺すなどして排除することでどんどん後に引けなくなり、集団内の信仰の純度を高めていったが、しまいには自分たちの教義を信じない外部の人間を積極的に攻撃するまでになってしまう。
もともとは恐怖や苦痛から逃れるためにみんなで連帯するための教義だったはずなのに、いつの間にか自分たちの行動を正当化するために積極的に外に敵を求め、敵を攻撃することによってしか自分を保てなくなってしまっていた。
なんか現在のネットでもこういう状況いっぱいありますよね。
本日ゼミで、選挙について若い人たちの見解を虚心坦懐に聞いた。で、彼らは「よほど悪い状態にならない限り、みんなが平等に悪くなるならそれでよい」と感じているようだ。どこまで状況が悪くなると動くかというと「戦場に送られそうになったら」みたいな感じだった。
— ロージナ茶会 / 旭霜 (@RodinaTP) 2019年7月22日
多分もう手遅れ。
民主主義についてもあまり当てにしておらず、王政だろうが貴族政だろうが、とにかく自分たちの現在の「幸福な」生活が維持されるのであれば、とくに気にならない、というような反応があった。
— ロージナ茶会 / 旭霜 (@RodinaTP) 2019年7月22日
彼らは自分たちがいま「幸福だ」と思っているようで、それは周りの人と同じであることにかかってるようだ。
それで、現政権については「とにかく今自分たちが何とかやっていけてるから、野党などがよけいなことをして悪いことが起きるよりは今のままがいい」という意味での根強い支持がある。ここまで信頼されているのにはさすがに驚く。
— ロージナ茶会 / 旭霜 (@RodinaTP) 2019年7月22日
戦場に送られそうになったり、戦争になりそうになったときに、反対の声を上げても、もう「やるぜえ」という状況になってて、相手も攻撃準備をしている段階なんで、そこで何かを言ってもいかざる得なくなってる、ということについてはあまり考えてない。「いやだ」といえば止められると考えてるみたい。
— ロージナ茶会 / 旭霜 (@RodinaTP) 2019年7月22日
現状を良いとは思っていないが、自分にはどうしようもないときせめて上の人間がいい人であると「祈る」しかできない。祈ることさえ難しければ「今より悪くならなければそれでいい」という考えになる。こうした態度を批判することは簡単ですが、自分だって今つとめてる会社について、あらがったりせずに文句を言いながらも従ってるわけで、そうしたあきらめの態度が若者にも伝わって選挙において表れてるのかもしれません。
「Sマリア教団」らしきものはネットにはたくさんあって、ネトウヨは反対勢力を求め、ネトフェミは血眼になってたたきやすいオタクを探し。アベさんがいる限り大丈夫だーとか、日銀がいる日経平均株価耐えられるはずだーとか、年金がーとか。なんでもそうだけど自分でどうにもならない状況に置かれたときに、こうやって思考を放棄して他人にすべてゆだねたくなるのは危険だけど、それだけ強い誘惑なので本当に気を付けないといけないと思う。
我々は善なのではなくただただ凡庸で透明な存在なのだ。よほど意識しなければ、すぐに他の色に染められてしまう。そのことをちゃんと自覚しておきたいなと思う。
www.tyoshiki.com
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弱い人々(Sマリア教団)をしっかり描いてくれているから、逆に自分たちの力で生きようとあがく女の子たちが輝いて見える
この作品では、強さというのは「自分を他人に預けないで自分の意志で行動し続けられるかどうか」なんだなというのがはっきりわかります。
自分だってこの状況に置かれたら、あるかどうかも分からない信仰に飛びつかざるを得なくなる可能性は高いと思います。少なくとも、寄らば大樹の陰と、多少間違っていようが大きな集団に守ってもらいたいという思考になりそう。そんな時でも、自分を手放さずにはいられるのか。大事なものを見失わずにいられるのか。
この作品は、そういう我々でも容易にハマりうる歪みをこの上なくグロテスクに描いてくれています。自分の中にもある弱さをえぐられるような感じを味わいたい人はぜひ読んでみるといいと思います。
あとコミックリュウは今この作品が面白そうですね。これも後で読むかも。