パターン認識ってもちろんとても大事なんですが、パターンを認識するだけじゃなくて、「なぜこうなっているのか」の掘り下げが足りてないのは「素人の生兵法」といって馬鹿にされます。
なぜ馬鹿にされるかというと、ちゃんと馬鹿にしてそれを否定していかないと「それがあり」になってしまうと害が大きいからです。
実際にお金が絡む株式トレードだと、こういういい加減な理解の人は中途半端な理解がいかに有害であるかを身をもって知ることになる
たとえば、チャートの形だけ理屈を理解せずに形だけ暗記して、全然違うシーンで使おうとする人がいます。
「ちょっと前に〇〇という株ではこのチャートの形をしてて、そこから株価が爆上げした!つまりこれと同じ形をしてる△△という株も上がる!」
もちろん、トレンドラインやチャネルなど、かなり通用しやすいケースもあります。
しかしローソク足とか反転サインを暗記しているだけのケースはかなり危険です。底値圏での「逆三尊」の形を知っているからといって、それを天井圏で使っていいわけじゃない。
何も考えずにやるとこういうパターンもあり得るわけです。
相場環境や当時のテーマ環境が全然違うのにチャートだけで判断するのも愚かなことだと思う。
このように、株の上げ下げを当てるだけの単純な判断でさえ、いろんな変動要素がある。まして現実の物事について考える際はもっともっと考えることが多くあるでしょう。
パターン認識は「仮説のアタリ」をつけるためのスタートラインであって、パターンに気づいたからすぐに結論を出してしまうのはとても危険なことだと思います。
株だと結果が出るから、間違ってる人はしぜんと淘汰されていくけれど、ネットだと安易なパターンが結構もてはやされることがある
ネットでバズったり、はてブで人気コメントになるというのはよく言えば「大衆に支持される」ということですが、この大衆というのが厄介。
だれだって知らないことや興味のないことについては「バカ」なのです。内田樹さんでさえ自分の専門分野以外になると頓珍漢なことを言うくらいですから、まして我々なんかもっとひどいでしょう。つまり大衆にとってなじみのある話題であればよいですが、そうでない話題では「大衆の意見」というのは「バカ」と同義だったりするなと。 その結果、ネットでは上記のような安易なパターン認識が受け入れられることが結構あるんですよね。
こうしてインターネットでは「安直なパターン認識」=「箇条書きマジック」がはびこることになる
「箇条書きマジック」に近い論理学用語として、「チェリー・ピッキング(cherry picking)」がある。元々はチェリー(サクランボ)の選別を指す言葉で、転じて「つまみ食い」を意味するようになった。自らの主張に有利な事例だけを「つまみ食い」して並べ立てることで誤った結論へ誘導する手法であり、箇条書きも使われやすい。
こういうのは頭がいい人は「ネタ」でやります。ネタとわかるようにやってる人も結構多くて、そのあたりはさすがだなと思います。
でも、たまにそういうツイートがバズっているのを見て馬鹿な人が本気でこれをやろうとする。こういうのがバズるパターンだと安直に理解してしまうんですね。
例えば「竹中平蔵の話題が出たらとりあえず叩いておけば★がもらえる」
例えば「気に入らないやつに壺壺言っておけば左翼のお仲間から★がもらえる」
みたいなやつも安直なパターン認識の例ですね。
はてブ民は特にこういう「安直なパターン暗記」をしてる人が多くいるような印象です。
多分、こういう時、コメントを書いている人は何も思考してないのかなと。
バカな人が安直にパターンだけマネして、箇条書きマジックをやると悲惨なことになるといういい例だと思います。
というわけで、ここまでが前置きというか一般論。ここからが本題です。
「バカが書いた箇条書きマジック」と「まじめな分析・まじめな意見」の境界線ってどのあたりにあるんだろう?
私はこのまとめを見た時「バカがやらかしがちな安直な箇条書きマジックやなぁ」と思いました。
コメント欄でもツッコミが殺到しています。
・ただの箇条書きマジックってやつですね
・頭が悪いと都合の良い所だけを箇条書きにして評論家ぶるんだよね
・要は貴種流離譚で説明つくのでは
・一般的な用語を元からかけ離れた意味で使用して、さらに侮蔑的な意味合いを付加するのはやめよう
・もっと本を読もう
でも、本人は意外なことに大まじめに分析したつもりだったらしく、こういうツッコミに対してめちゃくちゃ長文で反論してるんですよ。
いくらなんでも「貴種流離譚」で片付けられるのは頭悪すぎるから2つだけ。1つは「貴種流離譚」はストーリーを分類するフォーマットとして秀逸なのは認めるけど…それだけ全部を説明しきった気になるのは、ひろゆきや中田敦彦に同調する人と変わらんと思うで?世の中には「便利語」という概念が存在して、「多くのものに当てはまるから他人を攻撃したり、頭の悪い人をわかった気にさせるのにすごく便利な言葉」というのがあるんだけど、「貴種流離譚」はその1つです。頭のいい人が抽象的な話が多かったり、むやみな断言・カテゴライズを避けるのは「便利語・具体化による解釈の矮小化」を避けるためです。なんでもかんでも既存の用語で片付ける前に「むやみに当てはめたら、矮小化してしまうリスク」を考えられないのは…アホです。用語1つで済むなら、みんな長文でがんばって語らないわけで…2つ目は、都合のいいところだけを箇条書きにすることで、もっともらしく見せる「箇条書きマジックによる詭弁」ではないか?というご指摘がありました。…あなたちゃんとNARUTOを最後まで読んでます?むしろ、私が挙げたのは比較的有名なモノでしかないのですが…。NARUTOで「差別・分断」の問題が一番深掘りされてるのは、むしろうちは一族全般の話で、これは歴代火影も扱いに困ってるし、イタチも板挟みになってるしで…とけっこう重い話が描かれてる。箇条書きでNARUTOの都合のいいところを取り上げた?話のメインにうちはとの分断の話がめっちゃ出てくるぞ?あの作品。で、新海誠っぽい話も、実は木ノ葉丸やボルトという人間を出すことでやんわりと触れられていて…親が優秀だと子どもの負う義務やプレッシャーが大きかったりするのだが…優秀な親の子だからこそ時代にフィットしすぎて話に合わなかったり、知恵が付く前から行動力があったりして軋轢が生まれてたりする。NARUTOではそこを触れてる。ハリポタもハリポタでハリーを不遇のヒーローにしたかったら、別にマグル・純血の分断っていらないんですよ。また、貴種流離譚では、そういった描写について説明しきれてないんだよ…。細かいところで当てはまらないモノにアテられるバカなコメント欄で本当に絶望する。だから「名作読もうね」って締めくくったのに。ぼくだって、NARUTOは全巻読んでるし、ハリポタも映画本はそこそこ読んでるから「あー近いかも」って仮説が浮かんできて、それを調べて説明して書いたのに「都合よく張り合わせた」なんて言われたら、NARUTO知識引っ張り出してカウンターパンチ浴びせますよ。細かいところまで覚えてない人もいるから端折っただけで「詭弁」とか言われても困る
周りからは「箇条書きマジックにしか見えない稚拙なアウトプット」
本人の意識では「まともな意見。ちゃんとした分析」
どうしてこういう認識のズレが生じてしまっているのでしょうか?