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「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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「イスラエル 人類史上最もやっかいな問題」を読む4 お前たちは真のブリカスを知らない…

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の続き。前回は「三枚舌外交」の誤解を解くというか、この時点ではまだイギリスはそこまで酷いことはしてないという話を書きました。実際にこの時点では、アラブ側はすでにイギリスを信じられなくなっていたものの、まだユダヤ側は多少イギリスを信じる心は残ってた。イギリスが本当にひどかったのはこの後です。


三枚舌外交だけならともかく、その後の「中東白書」こそがひどすぎてイギリスが「ブリカス」と呼ばれる最大の理由になっている

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1:1921年 チャーチル白書
アラブ人によるユダヤ人迫害を受けて出された。
ユダヤ人による継続的な移住に賛同するものの、アラブ側に配慮して、シオニストを全面的に支持はしてないと表明した。ユダヤ人は民兵組織「ハガナ」を結成したが、この時はまだアラブとの対立は避け防衛に特化していた。
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2:1929年白書
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「嘆きの壁事件」の後、アラブ側に配慮して、ユダヤ人のパレスチナ移住を制限する文書を出した。他にもエルサレムでの祈りはイスラム側の慣例に従えという宗教儀式への指示まで行った。
→当然ユダヤ人はマジ切れして「イルグン」という過激派が生まれ、その後アラブ人に対する爆弾テロを実行するようになった。

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3:1931年マクドナルド書簡
今度はシオニストに配慮して、ユダヤ人のパレスチナ移住制限を緩和した。


4:1937年 ピール白書(パレスチナ王立委員会による勧告書)
・ナチスドイツの迫害を避けるためユダヤ人がパレスチナ移住を加速させると領土を奪われると危機感を抱いたアラブ人コミュニティが大規模なゼネストを実施。

→イギリスはこれを武力で鎮圧し、アラブ人勢力を弱体化させる。また、もう両者は共存が不可能と判断してパレスチナをユダヤ人国家・アラブ人国家と分割して住み分けることを提案した。領土分割に合意すればイギリスは委任統治から手を引くことも提言。ユダヤ人側はこれを受け入れたが、アラブ人側は即座に拒絶し、結局この分割案は永久に放棄された。

5:1939年 第二マクドナルド白書
アラブ人側に配慮して「ヨーロッパのユダヤ人がナチスドイツに迫害されているにもかかわらず」ユダヤ人の移住を厳しく制限し(5年間で7万 5000人に制限)、パレスチナにおけるユダヤ人の土地購入も制限した。さらに「ユダヤ人の民族的郷土」はアラブ人を主とするパレスチナという国の内部に作れという勧告を行った。


結局のところ、イギリスは第一世界大戦の際にはユダヤ人コミュニティを利用したくてユダヤ人側に配慮した約束を行ったが、第一次大戦が終わった後は、地政学的にユダヤ人よりも大多数を占めるアラブ人を敵に回すことができなかった。しかも最後の方はもう対応できないとなってさんざん状況をぐちゃぐちゃにした後「ユダヤ人をアラブ人たちの支配下に置く」という位置づけにした上で自分たちはフェイドアウトしようとしていた。

パレスチナのユダヤ人たちはヨーロッパのナチズムと戦うべくイギリスに志願していたが、
危機的状況にあるヨーロッパのユダヤ人たちはパレスチナへの非難をイギリスによって禁じられることになった

ユダヤ(シオニスト)の指導者であった「ベン=グリオン」はそれでもイギリスに協力したが、イルグンはイギリスに反乱を宣言した

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「我々は白書など存在しないかのように戦争ではイギリス軍を支援し、戦争など存在しないかのように白書に抵抗しなければならない」

こうして、イギリスによってアラブ人とユダヤ人だけの対立ではなく、ユダヤ人同士で争いが起きることになった。最終的には「ハガナ」がイギリスに協力して「イルグン」を鎮圧したが、これでユダヤ人同士の間でも溝が深まることになった。


また、ユダヤ人から見ればイギリスはアラブ人に配慮しすぎの政策をおこなったが、アラブ人は三枚舌外交時代のときからイギリスを信用しておらず、むしろイギリスはユダヤ人・シオニストを支持していると捉えていた。その結果、アラブ側の有力者がヒトラーと手を組むことになった。
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パレスチナ・アラブ人(のちに「パレスチナ人」とされる)の大部分はユダヤ人との平和な生活を望んでいたにもかかわらず、暴力団によって反フサイニー派のアラブ人を殺害し、フサイニー家のライバルのアラブ人136人を虐殺した
(中略)
ドイツの同盟国である日本の公使館に潜伏し、イタリア公使館の助けを借りてイタリアに亡命した。最終的にフサイニーは、ナチス政権下のドイツへ渡り、11月29日にはヒトラーとも会見してヨーロッパからユダヤ人を「殲滅」するよう要求した。

戦後「ホロコースト」により600万人以上のユダヤ人が虐殺されたことが明らかになると、世界中でシオニストを支持する機運が高まった

・それでもイギリスはホロコーストの生存者がパレスチナへ移住することを認めなかった。海上封鎖まで行って徹底的に移住を阻止した。 かわりにアメリカやカナダの退役軍人が非公式に生存者をパレスチナへ護送しようとした。

・特に「エクソダス1947号」の生存者たちがイギリス軍に上陸を阻止され、数人の犠牲者を出した上にドイツの難民キャンプに送られたことが報じられ、さらに小説・映画化されたことにより、イギリスのイメージは最悪になった。
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ユダヤ人民兵組織「ハガナ」「イルグン」が協力してイギリスを追い出すべく反乱を起こす

・しかし、過激派のイルグンは無差別の殺戮を行ったため、すぐにハガナはイルグンと決別した。
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・結局、イギリスは委任統治を放棄してパレスチナから撤退することになり、後の責任を国際連合に丸投げした。

 

1947年 国際連合はイギリスと同じように領土分割案を採択したが、結局これは実行されず「第一次中東戦争」が始まる

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委任統治を速やかに終了し、遅くとも1948年8月1日までにはイギリスはパレスチナから撤収することとなった。新しい国家は撤収から2ヵ月後に成立する予定であった。シオニズムとして知られるユダヤ人の民族主義とシオニズムの前から先住していたアラブ人の民族主義は競合し相反するため、これに対処すべく分割が提案された。決議案のII項では国境線についての提案がなされている。また新国家は経済同盟となることと、宗教的少数派の権利を保護するよう求めた。


パレスチナのユダヤ人たちは「ハガナ(防衛)」という民兵組織を創設。名前の通り防衛を重視していた

ハガナの理念は「専守防衛」。「武器の高潔さ」という理想と「抑制」政策を唱えて、非戦闘民への攻撃を禁じ、攻撃されても報復をすることすら禁じていた。実際、かなり長い間、ユダヤ人はこのハガナが主流であった。つまり「耐える」ことを選んできた。
しかし、このハガナは後に「イスラエル国防軍」となり、変容していく……。


まだこの時点では、少なくともユダヤ人の主流派は「世界との協調」を重視していた

実際イギリスはともかくとして世界はシオニストに同情的だったし、自分たちを後押ししてくれていた。
だから、むしろ自分たちで過激派を抑えつつ、できるだけ世界と協調しようとしていた。



しかし1970年代以降はこれが裏返り、むしろ過激派「イルグン」の流れをくむ極右勢力が主流となってしまう。
それは独立前後からその後の情勢が、あまりにもイスラエルにとって厳しかったから。


このあたりの話は、次の回に説明していきます。



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