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「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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「人生には、割りきらないほうがいいこともあるんだよ」

もう、ゴールしてもいいよね…

という言葉が許されるのは某ヒロインだけ、という話。


よくよく考える前に「割り切れる=自分が受け止められる範囲」で答えを出そうとするとしょうもない答えしか導き出せない。「割り切れない」状態に耐え切れる余裕が有る間は、「割り切れない」と思いながらそれを抱えながら生きたほうがいい。 割り切るのはそういうのを考える余力がなくなったか、飽きた時でいい。


そもそも、まだまだ十分な経験をつんでいない学生や新人、ニート状態で社会問題や人間の尊厳に考えても、よほど才能が無い限り、自分の枠内で考えるしかないのだから、たどり着ける範囲には限界があると思う。もちろんこれは若者をバカにして言ってるわけではない。この話でいうと「割りきらない」限りは60歳だろうが若者だ。一方、高校生だろうが24歳だろうが、「割り切った」時点で、考えることをやめた時点で、その問いに関しては老害になる。


若くても、その時々の自分の感じたこと考えたことに価値がないわけじゃない。それはそれでその時の自分に必要な考え方だ。大事にしたらいい。だが、それが全てじゃない。そこをゴールにすべきじゃないことも同時に理解しておかないといけない。その時の答えで満足して、そこで問うのをやめたら、人生そのものがそこで停滞する。人生について結論を出してしまったら、そこでその人の人生は終了する。 マンガのキャラでいう死亡フラグだ。

今日、海を見た。もう怖くない。

体が軽い…こんな幸せな気持ちで戦うなんて初めて…もう、何も恐くない!

だからまだ何かわからないことや納得できないことがあるなら、別にそれはそのままでいい。今割り切る必要などどこにもない。「その問いについて、今は割り切れないけれど、暫定的に今は○○○ということにしておく。また違った立場になったら考える。 この問について考え続けたいから頑張ってもうちょっと生きる」ということにしておいた方がいい。

んで、もう自分が諦めるときになったら、まだ考え続けたいけれどとりあえず時間切れで死ぬときになったら、その時考えたことを答えにすればいい。

「これで僕はようやく生きることを辞められそうだ」

「なんだかね、これって、ある意味カンペキなハッピーエンドだと思うんだ 」

「あ、それは、僕も感じてたところ 」

「それなら、良かった 」





というより、人間なんて人生かけても答えが出ない問は結構多い。ところが、そういう問いはむしろ日常の中にこそ転がっている。話題になっていた「なぜ人を殺してはいけないのか」「幸せとはなにか」「人の生きる意味は」みたいなやつね。

人間からみれば,人間以外の仝生命の生き方は,ニヒリズムとしてしか映らない。なぜなら,そ れら生命は,目的も,意味も,価値もなく生きているからである。しかし,果たしてそうなのか。かれらは目的や価値をもっていないのではなく,最初から目的や価値とは無縁なのである。ということは,かれらの生き方をニヒリズムとして見る見方にこそ問題の根源がある。すなわち,視点が向けられたものの方にニヒリズムがあるのではない。ニヒリズムを生んだのは,ほかならぬ視点の方なのだ。ここには人間自身の一種の防衛機制としての投影が見られる。要するに視点の主体,すなわち人間こそがニヒリズムを背負って登場したということなのである。
人間は,目的・意味・価値等の観念なしには,ものごとを見ることさえできか一存在である。生命という点で,他の生物と同次元に位置していた人間は,しかしこの視点のために他の生物とは異なる次元へと押し出される。人間は生存のために,目的や意味,価値を必要とする。それが存在しないことは,人間にとって重大な危機となりうる。

http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/3662/KJ00004249054.pdf

ここで問題にしたいのは、ニーチェ自身が自らの主張を一つの「解釈」であると見なしていた点である。ニーチェは、自らの主張を、「真理」として提出しているのではないのだ。そうでなければ、つじつまが合わないはずである。普遍妥当的な「真理」なるものを誰よりも批判していたのが、他ならぬニーチェだったからだ

http://heideggerforum.main.jp/ej6data/takeuchi.pdf

こういう問に明確に答えを求めようとしすぎると、「言葉」で答えを求めようとするとまず間違いなく「自分の求めるこたえは得られない」「人生は理不尽だ」という答え、つまり諦めだのニヒリズムだのにたどり着くんだと思う。でもそれはなんというか無駄っぽいしなんか違うだろ、と思う。 わかんないならそれでいいというか、決まった答えなんて無い。でもそこで「答えなんかないんだ」って諦めずに、その都度、その時の自分が考えて、暫定的に答え決めて、アップデートしていくしか無いわな、と。



だから「なぜ人を殺してはいけないのか答えられる人はいない」については、なんでそこで人に頼ってんだよふざけんな自分で考えろそもsもその問が自分にしか答え出せない問題なんだってことを自覚しろその答えをを他人に決めさせないことが自分で生きるってことだろ自分の問いに答えてくれない他人をあざ笑ってる暇があったら自分で考えろ、その上で自分の答えを述べろなんで社会論に逃げてんだそんなもんでお前の心は納得するのか、そんな安っぽい答えで納得できるくらいだったら最初から他人にその問を投げんじゃねえよもっお真剣に考えろ死に物狂いで考えろ、その問の答えがお前が生きるために必要なら妥協なんかすんじゃねえ納得できるまで頭使って考えろみたいに逆切れしていくスタイルで挑もうと思います。

とりあえず、善良な市民を、こういう思考の落とし穴にはめようとする行為は悪質だと思うのでやめましょう。



参考
http://www.philosophyguides.org/decoding-of-nietzsche-genealogie/

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