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社会的な問題を論じるときに「何が良くて何が悪いかの線引きを自分だけでやってはいけない」ことをわきまえてる人は嫌いじゃない

宇崎ちゃんネタはこれが最後にするつもりです。

anond.hatelabo.jp
これも叩かれてるけど、私は先の増田と比べてこっちはそんなに嫌いじゃない。


一通り読んだ段階では私はこの増田の主張にほとんど同意しない。だけど、先の増田と比べて会話はできそうな気がする。会話の途中でうなづく部分もあって、それで自分の意見が変わるかもしれないとは思える。

「議論」を求めるものが最低限わきまえておかなければいけないたった一つの要素

なぜそう思うかというと、「議論」をしたい、というとき最低限わきまえておくべきことを、この人はわきまえているから。


具体的に言うとこの部分。

「宇崎ちゃんがセクシャルな意味合いを含む萌え絵で、献血ポスターにふさわしくないことは、甘んじて認めよう。では、同じまどかマギカでも、マミさんはダメで杏子なら良いのか?」これは本当に難しい。胸がこのくらいくっきり描かれていたらアウト、とか、このくらい頬が染まって困り眉をしていたらアウト、などと線引きをすることはできない

では、どうしたらいいんだろう?

議論をしたらいい。話し合おう。

文章全体としては歪みを感じますが、この部分を見ると最低限のルールはちゃんと守っており、まだ会話できる余地はあると感じます。


どういうことかわかりますか?


議論をしたいという時に最低限守るべきなのは「自分が議論の答えを決められる立場である」という勘違いをしないということです。裁判のイメージでいうと、自分は議論に「弁護士」または「検事」として参加するが、裁判官ではないという自覚を持つ=相手と自分は対等の立場で議論をしているという前提を持つ、ということです。

この自覚がある人とは会話ができますが、この自覚がない人とは話をしても無駄です。自分が裁判官だと思っている人と対話を試みても、たいていは茶番に終わります。





社会的な問題は、極論すると何が正しくて何が間違いかを決めるものではなくたいていは「線引き」について個別に結論を出したり、大まかなルールやガイドラインを作っていくことが目的になります。

この際には「自分なりの意見はある」し、「自分の意見について論拠を述べられる」が、「まだそれが決定的なものではない」ということを了解している人だけが議論にプラスの効果をもたらします。

逆に、「自分だけが線を引く権利を持っている」「自分が引いている線が絶対である」と思っている人間はダメです。こういう人は「議論しよう」「よく考えてみてください」と口では言ってても実際には自己完結しており実際には議論に参加するつもりなど最初からありません。自分では自分の意にそわないことを考えるつもりがないし、自分の意見を相手に押し付けて認めさせたいだけです。


この違いは「自分をどう見ているか」「相手をどう見ているか」という点で判断します。例えば相手を「思考停止している」という前提で話し始める人間は、この時点で相手を「自分の意見を受け入れさせる対象」としか見ていないので話をしても無駄である可能性が高いでしょう。

これ、自分が逆の立場だったら「上司でもないのに自分を下に見て意見を押し付けるだけとしか思ってない相手の話をなぜ聞かなければならんのか?」となりますよね。

今まで自分が見てきた限り、はてなで見かけるフェミニストさん、90%がこのタイプです。自分がオタクだからひいき目でそう思うのかもしれませんが、オタク側はだいたい80%がこのタイプです。先の記事でも書きましたけど、この8~9割の人は、どっちの立場であろうが私は話をする価値がないと思っています。


はてなを始める前に抱いていた「リベラル」や「フェミニズム」のイメージ

(あくまで私の中のイメージですが)「リベラル的な思想」や、そこから生まれた「フェミニズム」というのは、こういう「今引かれている社会のラインを疑え」「社会のラインは可変的なものである」という前提に基づき、「特定の誰かではなくみんなの幸福度が上がるラインを考えよう」「より良いラインを探っていこう」というものになるかと思います。

ここで「自分だけ優遇されたい」とか「特定の〇〇はけしからんから線から追い出せ」とするのはリベラルやフェミニズムの考え方とは相反すると私は思ってます。

少なくともはてなを始める前、私は「papa told me」が大好きでしたのでリベラルやフェミニズムとはそういうものだと認識していました。

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社会や周囲が自分にいろんな線引きを要求してきても、「まず自分が自分らしく生きられるラインを模索し、それを守った上で周囲を尊重する」というのが、「papa told me」から私が受け取ったフェミニズムのイメージです。 まぁこの作品で描かれているのは「社会の上澄み」部分が多いため、「世の中そんなきれいごとばっかじゃねえんだよ!所詮上流階級のゲーティッドコミュニティの話に過ぎねえだろ」なんて批判もありうるかと思いますが、それでも原則はやはりこういうことなんじゃないかなあと今でも思ってます。

まぁこの話抜きにしても、「他者を尊重しないのに自分の意見や感覚だけ尊重しろ」なんて馬鹿げたこと言われてもしらんがなってなりますよね。 私は男ですが、発達障碍者としてずっとマイノリティの立場を経験してきています。だからといって、理解はしてもらいたいと思うものの、弱者として自分の特権を主張したり過剰な配慮を求めるつもりもないですね。

まぁこの辺りは自分の勝手なイメージなので、あんまり強く主張するつもりはありません。


気を取り直して上の増田についての感想……

なんですが

①②③④すべて揃ってしまったから、問題なのだ。
揃うと、どうなるか。
そのメッセージがある空間、そしてそのメッセージが許される社会で、「すべての人には人権があり、その人の体は、その人だけのものである」という意識を、みんなに持ってもらうのが難しくなる。
自分の体を、許可なく性的な目で見られたくない人は、その社会では安心して生活できなくなる。
安全な暮らしが脅かされる。人権の侵害に繋がる。

私はここについて「①~④がすべてそろった時にある種の権力(特定のメッセージの煽動)」が発生するという点は肯定します。

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その上で、先の記事で「マクロの権力」と「ミクロの権力」の違いというものを述べています。

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要するに増田の「②公共の場、誰の目にも入りうる場所で」「④公共性の高い事業のプロモーションを」によってこの問題が「マクロの権力」の問題=「社会全体の問題」であると主張していることがミスリーディングであると主張します。

一行でいうならば増田は「公共性」という概念を過剰に拡張している」と考えており、その点に異論を唱えたいということです。ただし、上でも述べたように「それが公共においてふさわしいかどうか」について、他のフェミニストと違って「ふさわしくないのは自明である」という立場をとってないことが素晴らしいと思います。


たいていのフェミニストさんの意見は

①「公共」の範囲とはどこからどこまでか
②「問題となっているものは公共にふさわしいか」
③②においてふさわしくないとすればそれはなぜか。

というどちらも線引きに対して議論が必要な問題に対して「どちらも自明である」という前提で話をすることがあまりに多く、「公共性」という言葉を連呼するだけのゴミ主張を議論と思ってる人が多いですが、今回の増田は①についてはともかく②や③についてきちんと話し合いの余地があると考えてくれていると判断しています。後は①、②について議論をし、両方の条件を満たすなら③について議論をしていけばよいかな、と考えています。


私からは以上です。

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