「公共」というもののあり方について、僕は「明らかにアウトじゃなければセーフ」という考え方なのですが、「明らかにセーフじゃなければアウト」という人が多いのは、気になる。
— 吉澤 (@yoshizawa81) February 15, 2020
その意味で、特に公的権力を持つ人は、謙抑的に振る舞うべきなのだが…香川県の例とかなぁ…
最近テンプレ化してきてる主張について
以下禁止なんてのも要らなくなります。性的なものは大多数の人に羞恥心或いは不快感を与えるものです。公共の場というのはあくまでも出来るだけ多くの人間が気持ちよく使える場所でなければなりません。少なくとも日本ではそういう考えが浸透しています。その為に「適切でないもの」は、言い方はキツイ
— 見時 (@miharu2341) February 15, 2020
ですが排除されるのです。「エロがないと気持ちよく使えない」なんて人は早々いないでしょうが、「性的なものがあると不快」と感じる人は結構な数います。となれば、どうすべきなのかははっきりしているかと。
— 見時 (@miharu2341) February 15, 2020
長々と失礼しました。
う方が無理ですしその辺理解していれば不快感はないと思います。でもある程度の苦情は必ずあるかと。一昔前のテレビは夕飯時でも平気で下着のCMを流していたからお茶の間が凍りついたなんて話もよく聞きますし、不快感は私自身は感じませんが、そんなCMは流さないのがベストかとは思います。
— 見時 (@miharu2341) February 15, 2020
まあ最初に言った通りポスターがエロいエロくないは一先ず置いておいて性的なものを公共の場で放つことには問題はありますという話です。
— 見時 (@miharu2341) February 15, 2020
どうも最近、こういう感じの意見を述べる人が多くなってきたなと思います。
そういう人たちはなんとなくこれが「賢そう」「正しそう」に見えるんだろうなと。
でも、この人、自分の頭で考えてないよね。
他の人がこんな感じて言ってるという話をそのまんま受け売りを語ってるよね。
「公共」って言葉を気軽に使いすぎ問題
本当によくわからないんだけどさ。フェミニズムの人たちって「公共」ってものをどうとらえてるの?
ぶっちゃけそんな簡単に使えるような言葉じゃないと思うんですが、やっぱり「自分と身内の感覚=公共」って感じなのかな。
私にとって「公共」は「個人の権利を優先する社会」の在り方に対する補集合みたいなものであって、
ぶっちゃけこの言葉自体にはそれほど意味がないと思ってるんですよ。
というか、強い意味を持たせてはいけないと思っているわけです。
でも、みんな公共ってものを「何か正しいもの」のように使ってるよね。
「公共としてふさわしいもの」がかちっと決まっていてそれ以外は全部NGみたいな感じで考えてる。
しかも、自分たちの感覚こそがその公共としてふさわしいものだとなぜか信じてる。
わたしこの言語感覚が本当に気持ち悪くて嫌なんですよ。
その感覚を拡張していくと容易に恐怖政治になると思うんだけど、そのことについてなんの危機感もないのがすごい。

- 作者:ジョージ・オーウェル
- 出版社/メーカー: イースト・プレス
- 発売日: 2012/01/31
- メディア: 文庫
あいちトリエンナーレの時に「公共の福祉」による制限を肯定しようとしてましたが
togetter.com
「問題がある」程度で制限をすべしという主張に違和感を覚えない人、ちょっと意識甘すぎません?
性的な表現にだけ感覚が鋭敏になられるのは結構なことですが、その代償にほかのところがゆるゆるガバガバになってたらダメじゃない?
まず憲法における「公共」の意味で使ってるのであればこのあたり
第十二条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。第十三条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。第二十一条
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
あと22条(住居)と29条(財産権)がありますが、こっちは今回関係ないのでOK。
憲法における公共の福祉という場合、最近までは「一元的内在制約説」が主流であったことからもわかるように個人間での問題を調整する機能として理解されており最近になってそれだけではないということにはなっているがいずれにせよ「公共の福祉それ自体が基本的人権制約の正当化事由となるわけではなく、全体の利益が個人の権利・利益を凌駕することを意味するわけではない」という点では理解が一致している。
憲法概念における「公共」を理由に表現の自由を侵害することはかなり困難であるといえる。自由の濫用だとか公共の福祉に反するという感じで主張している人はだいたい何もわかってない。
刑法においても刑法175条が焦点
第175条
1 わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、又は公然と陳列した者は、2年以下の懲役若しくは250万円以下の罰金若しくは科料に処し、又は懲役及び罰金を併科する。電気通信の送信によりわいせつな電磁的記録その他の記録を頒布した者も、同様とする。
2 有償で頒布する目的で、前項の物を所持し、又は同項の電磁的記録を保管した者も、同項と同様とする。
なお、判例によるとこのわいせつ物の定義は非常にあいまいである。
・徒に性欲を刺激・興奮させること
・普通人の正常な性的羞恥心を害すること
・善良な性的道義観念に反すること
の要件を満たしていればとりあえず成り立ち、そこから「芸術性」などの諸事情を考えて差し引くというなんともいい加減なものであり、
表現の規制に絡んで権力の恣意性を許すため憲法違反であるという批判はずっと前からされている。
特に二次元表現については「保護法益」を無茶苦茶に拡張したり、「非実在青少年」みたいな概念を使ってでも首輪をつけようと必死な方々がいますね。
『表現の自由』は原則として保証される。しかし、他の人権や『公共の福祉』と対立する場合はケースバイケース。
三次元児童ポルノやドブス事件は明確に被害者が存在するためアウト。二次元に関しては明確な人権侵害はない。
また、二次元と犯罪率に関しても定説がないため、公共の福祉にも反しない。
後述する広告の影響とか「表象」「表徴」あたりを論じる際に、無理やりこの175条につなげようとして「メディア効果論」についてもいい加減な素人言説が山のように出回ってます。
note.com
ネットフェミニズムに対する嫌悪感の大きな要因として、不勉強なくせにやたらと自分の正しさを疑わず、断言口調で人を批判するというその傲慢な態度が、主張以前に人間としてクズ過ぎるというのがあります。
正義感と不勉強な態度が悪魔合体してデマを大量に生産しては、共感という流通経路を使ってネットにウイルスのようにばらまくっていう行為、普通にテロリズム一歩手前だと思ってますね。
んで、フェミニズムの教授さんがそういうデマを全然訂正しないことがけっこうあるのがやばい。 ほかの学問分野と明らかに印象が違いますね。
結局「公共」とは言ってるけど「広告のガイドライン」の話を皆さんされているのかなと思う
じゃあ最初から「わたしのかんがえたさいきょうの公共」みたいな話じゃなくて、「広告のガイドライン」って言ってほしいわけですね。
しかも、今回のガイドラインで、ラブライブのポスターはどの部分に抵触するんですかね?っていわれたら苦しいでしょ?
男女共同参画の視点からの公的広報の表現ガイドライン一覧 - ilyaのノート
このガイドラインやたらと振り回してる人いますけど
この広告ガイドライン遵守するなら女性向けの男性ユニットを使った広告とかにも女性どんどん入れていかないと行けなかったりとかするんですけどね。
何回も言うけど別に個人としてエロいと思うのはいいんだけど、それと「公共」を混同しないでほしいです。自分の感情を社会を通さずに自分自身で受け止める習慣つけようよ
だいたいね、一人一人に意見をもとめたらどっかでうまくつながらなかったりどこかで破綻してたりすることが多いんですよ。この前のZさんは象徴的だったですよね。
でも、なんか人気のツイフェミさんが煽っててみんな賛成してるからこれでいいのかな?みたいな感覚で発言してる人多いでしょ?
そういうフワッとした考えで社会を語ったらあかんと思うよ。むしろ、そういう発言してるのに周りでいさめてくれる人がいないってのは相当やばいんだよ。
他人の意見を参考にするのはいいけど、ちゃんとそれを自分で咀嚼して、自分で一通りほかの人に説明しようとしてみて、破綻してないか時間をかけて考えてみようよ。
それができないときに、前のめりなポジション取るのは本当によくないよ。
まず、自分が感じた不快感を、すぐに社会とかに直結させる癖はつけないほうがいいんですよね。両者が無関係だとは言いません。でもそう簡単な関数で不快感が生じるわけでもない。僕は、僕の不快感に影響する最大の要因は「自分」だと思う。個人的なことは生理的なこと。
— 千野 帽子『物語は人生を救うのか』ちくまプリマー新書 (@chinoboshka) October 5, 2018
そういうわけで、自分の本意を知らずにいる(自分の目に隠蔽する)論法を身につけることが、知的訓練だとされる事態が続いてきた。しかも「自分」をすっ飛ばして「社会」をあれこれ言うことには、怒りを再生産する麻薬的快楽が伴っていた。これは想像するに、なかなかやめられないだろうね。
— 千野 帽子『物語は人生を救うのか』ちくまプリマー新書 (@chinoboshka) October 5, 2018
当初は必要で有益な運動だったものがカルト化するのはどんな思想、どんな宗教でも珍しくないことで、だから僕はそういった分野の最先端よりは、もっと原理的な「可能性の中心」のほうを意識して生きていたいですね。
— 千野 帽子『物語は人生を救うのか』ちくまプリマー新書 (@chinoboshka) October 5, 2018
ネットフェミニズムがこういう論法を身に着けてしまった原因として、千野帽子さんが解説してくれていますが。
今って昔みたいにいちいち社会がーとか公共がーとか持ち出さなくても個人の不快感を「私は〇〇が気に入らない」っていうことが許されない社会じゃないでしょ。
むしろそうやってすぐに「公共がー」とかいって自分の感情におすみつきをあたえようとすることで、再帰的に自説を強化して過激化していくってのはもうみんないい加減にわかってるでしょ。
自分が何かを不快だと思う気持ちは、お仲間に肯定してもらわなくても自分で肯定していいんだっていい加減気づいてほしい。
そこでなんでもお仲間に承認してもらえないといけない、公共みたいな建前がないと自分の感覚を外に出せないっていう状態からいい加減脱してほしい。
現実はどうか知らんけど、ネットでくらい「自分の感情は自分のものだ」って認めて、もっと自分自身の感情を大事にしてほしい。自分の感情を自分の言葉で語ってほしい。
どいつもこいつも、教祖様から教えられた経典の文句をそのまんま丸暗記したようような個性のない発言ばっかりしやがって。殿様イナゴに煽られた養分イナゴみたいな振る舞いしている人を見るとそれだけでイライラします。
なんでフェミニズムを標榜しながら自ら進んで誰かの下で操られる存在に成り下がろうとするの? 私にはそれが全く理解できないし、それで満足ならフェミニズムなんかいらんでしょ。
もっと自分で考えて。もっと自分を大事にして。それがフェミニズムの目的でしょ。違うの? あなたたちが今やってることは自分たちを大事にした結果なの? 私にはとてもそう思えないですね。