頭の上にミカンをのせる

「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

最近のこのブログのお気に入りは「アークナイツ」です
アークナイツ
kindleセールの紹介
新NISA解説ブログ
発達障害

小学生の時のいじめの記憶をざっくり振り返ってみる

私はちょっと発達に障害がある人間だったこともあり、とにかく空気が読めなかった。
そのせいか、小学校2年と4年の時にいじめ的な行為を受けることが多かった。

そんな私だが、小学校3年の時は全くいじめを受けなかったんだよね。

その時の経験から「学校、特に担任の対応や運営」によって
いじめが起きたり起きなかったりするかは結構変わると思っている。




ということで、小学生の時の記憶をざっくり振り返ってみる。

今後何か言いたいことが出来たら、この記事を元になんか書こうと思う。



min.togetter.com

note.com




小学校2年生の時

この時は自分がいじめを受けているということをあまり認識していなかったし、今から思い返してもいじめかどうか微妙だと思う。

なによりも、自分自身があまりよく覚えていない。以下は父から聞いた話である。


当時はものを隠されたり、自分のものを取られて、みんなで投げ合いなどをするのを追いかけさせられるというのが結構あったそうだ。

これ自体は低学年の子供の間ではよくあることであり、じゃれあいのようなものとして処理されがちだと思う。

しかし、私はこのじゃれあいを遊びとして認識できず、普通に嫌がっていたらしい。そのため、泣きながら追いかけたり、下ばきを隠された後見つけたら犯人とおぼしき生徒に下ばきを投げつけたりと「お約束」に従わない行動をとっていた。

その結果、先生たちは「私の様子がおかしい」ということで対応した。

いじめという扱いだったかはわからないが、「問題児への対応」ということで親が呼ばれ、学校との話し合いの結果、隔離処理が取られるようになった。

小学校3年の時

小学校3年の時はベテランの先生が担任となった。

その担任は無理にクラスに混じらなくて良いという対応を取ってくれた。
課題が終わったら途中で教室を出て図書館にいったり、校庭に出ることが許可された。

そのうえで、特定のクラスメイトと意図的に接する機会を作ってくれたりして、私がクラスになじめるように対応してくれた。この時は珍しく友達と呼べる子供がいた。夏休みにはその友達の家に遊びに行くという経験を生まれて初めてした。


この時学校の先生の勧めで、学校以外の場にも居場所を持つことを言われたので、塾に週1回通い始めたり水泳教室に通ってみたりもした。(水泳は全然できるようにならなかったが)


そんなわけで、小学校3年の時はいじめは全くなかったしそれなりに前向きに過ごすことができた。今から思えばこれはSSレアな対応だったのだなと思う。



特に小学校4年生の時

ここがきつかった。

1年間全くいじめ問題がなかったこともあり問題ないと判断されたのか、この学年では新卒3年目くらいの若い女性教師が担任になった。

もしかして全然悪い人ではなかったのかもしれないし、私にもいろいろと原因があったのだと思うが、主観的にはこの先生のせいでいじめられたという思いが今でもある。

この人は「わたモテ」に登場するような熱血女教師であり、クラス全員が仲良くしなければいけないという信念を持っていた。
なので、前年度のように途中で教室を出たり一人の時間を持つことは許してくれなかった。むしろ、いろんな人と仲良くするように私の行動にいろんな指示を出すようになった。


ここで素直に従っていればまた違ったのかもしれないが、去年との扱いの差に対応できなかった私はめちゃくちゃ反発した。この教師のいうことを聞かず、抵抗することも多かったし、勝手に図書室に行こうとしたこともある。



その結果、露骨に敵視されるような感じになってしまった。私はクラスにとっての「悪者」という扱いになってきた。



そして、元々クラスにきちんと仲間を作っていなかったから、いじめられるようになった。
小学校2年生の時とは違って、子供たちも成長しており明確に意図をもっていじめ行為がされた。幸いにして暴力行為はほとんどなく、最初は「シカト」「仲間外れ」系が多かった。自閉気味の私はこれ自体はそれほど苦痛ではなかったのだが、だんだん「帰りの会」でのつるし上げや、ブロックしてこちらの邪魔をするなどの行為が目立つようになった。
帰りの会で謝るまで解放してもらえず、この年になってみんなの前で小便を漏らし、笑いものにされたことは一生許さねえからなまじで。
途中から同級生の兄が登場するようになると、暴力的ないじめも発生することになった。



当時発達障害という言葉なんて知られていなかったし、私自身も誰も知らなかったから仕方ないのだけれど、結果として私はここでちょっとおかしくなった。ある時に耐え切れなくなり、パニック状態になって校庭で泣き叫ぶことになった。
その際に生徒を水筒で殴りつけるという行為をしてしまったことにより、小学校2年以来の二度目の保護者呼び出し案件になった。


この後しばらく不登校状態、緘黙状態になり、水泳スクールもやめた。塾だけは通い続けた。


途中からは通学を再開し、小学校3年の時と同じような対応が取られることになったが、私は授業が終わるとすぐに図書室に逃げ込むようになってしまったため小学校4年の時は結局友達は一人もできなかった。


小学校3年の時に仲が良かった子供は、クラスが変わったら別の友達が出来たということで自然と付き合いがなくなった。



詳細は省くが、この小学校4年生の頃は、いじめの件で親に多大な負担をかけた。
親は私のために行動してくれたし、問題も解決してくれた。
結果だけ述べると、この時を最後にして、私は小学校にいる間いじめられることはなくなった。



中学生になって以降、私は親とそりが合わずにどんどん仲が悪くなっていったが、
小学校の時の思い出があるためどうしても親の愛情を否定できないし、嫌いになることも難しい。




小学校5年

小学校5年ではまた小学校3年と同じ先生が担任になった。おそらく意図的なものだっただろう。


5年になってからは全くいじめられなくなった。


原因はおそらく「勉強ができた」からだ。

私は学校の勉強だけは他の子どもたちと比べて得意だった。まぁ他の子どもたちが遊んでいる間、友達がいない私は一人だけ図書室に逃げて勉強するしかなかったので単に勉強時間が長かったというだけなのだが。


ともかく、小学校5年生頃になると、今まで全く評価されなかった「勉強ができる」という要素が普通に評価されるようになった。
これにより私はクラスの中で唐突に立ち位置を与えられた。クラスの中の役割・立ち位置さえできてしまえば、それに沿ったふるまいをしている限りは尊重された。


要するに、私は小学校2年から4年までの間は「何者でもない」「クラスにとっての異物」だったのだろう。だからいじめられていたのだと思っている。あとは小学校4年の時の親の頑張りのおかげなのか。そのあたりはよくわからない。


小学4年の時にあれほど苦しい思いをしたのは何だったのかというくらい楽に過ごすことができるようになった。


5年になってからは3年や4年の時のように図書室に行く許可はなくなったが、代わりに教室の後ろに「10冊程度の本」が図書室から取り寄せできるようになり、宿題が終わったら授業中にこれを読んでも良いという扱いになった。教室で本を読んでいたら、それが他の生徒と話すきっかけになり、無理に図書室に逃げ込む必要もなくなってきた。友達と呼んでいいのかはわからないが、クラスの中でやり取りをできる関係は築くことができた。


繰り返すが、小学4年の時にあれほど苦しい思いをしたのは何だったのかというくらい楽だった。




小学6年

正直ほとんど記憶がない。

ほとんど私立中学受験のことばかり考えていた。土曜日も日曜日もずっと塾に通って勉強していた。
その分、小学校は息抜きの場としてとても楽しく過ごしていたような気がする。

先生の推薦で生徒会のなんかの役員になったのだがどういう仕事をしたかの記憶はほとんどない。
ぶっちゃけイベントの時以外は何もしてなかったと思う。




なんとなくこの記事を読んで、振り返って見たくなったので書いてみた。

jassmaz.hatenablog.com

教習所型の場合、基本的に学校は乱暴なことをやっても大丈夫な居場所ではない。学校は共同体とみなされないので、自分たちのムカつきを受け止める容器、あるいは包み込み子宮のような空間とはみなされない。暴れたらあっさりと法的に扱われ、学校のメンバーシップもあっさりと停止されがちである。

そういわれれば中学校以降は教習所型だったなぁとかそういうことを思い返しながら書いた。