「体」を表明し慣れている人は、自身の行動を適切にシグナリングできるだけでなく、もし急に気が変わっても当面は「体」を尊重し行動してくれると(ある程度まで)期待できる。逆に「体」を表明し慣れていない人だとしたら、自身の行動をあまりシグナリングしてくれないために周囲の人との間にディスコミュニケーションが起こりやすい
「体」について本心か嘘かの二項対立的な捉え方は捨てましょう、といったことが書かれていた。私も賛成だ。でもって、ここまでお読みになればわかるように、「体」を他人のためか自分のためかで捉えるのもナンセンスだ。不自由をもたらすか自由をもたらすかで捉えるのも、たぶんナンセンスだ
シロクマ先生が説明してくれているように体というのは乱暴に言い換えると「プロトコル」とか「取説」を可視化せよということだ。
今までの日本企業はメンバーシップ型雇用だったので、「会社として共通のプロトコル」が漠然と存在し、社員はそれに合わせるということが求められていたと思う。これは借金玉氏が書いていた「茶番」と言うやつだ。
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こういうのを「体」といって正当化されようとしているのであれば拒否してもよいだろう。
しかし、「体」というのはこういう企業が望む自分を演じろとかいうそういうレベルの低い話ではない。あなた方は私をこういう人間として扱ってくださいということを提示することだ。そして、それを言葉だけではなく実際に行動で示し続けるということだ。
「嘘をつけということか」って言ってる人いるけれど継続して実践できない嘘は自分の首を絞めるだけだ。そうではなく「現在の自分」を起点として「自分が目指すこと」「そのために継続して実践できること」を示せと言う話なのだ。ここは私が何度も何度も紹介し続けている山田ズーニー氏の本に詳しい。この本の77pから86pは必読である。
人は、根無し草のような、ルーツもなく行き先もない存在には不安をいだき、つい軽んじてしまう傾向がある。だから、短い自己紹介でも、過去、現在、未来を関連付けて語ることで、聞く人はあなたにも歴史があり背景があり、未来に向けた意志があることを知り、その「連続性」から決して軽んじてはいけない、信頼に足す存在であるという印象を持つ。
プロトコルを確立・確認することなく適切なコミュニケーションを取ることはできない。取説を示さずに自分というものを正しく扱ってもらおうとするのは傲慢である。
別にこういうのは強制ではないが、提示したほうがお互いコミュニケーションが楽になるからWin-Winだよという話だ。
繰り返しになるが面接の時に嘘をつくべしという話とは全然違う。はてブでは「会社に嘘をつけということか」みたいな反応が目立ったがはっきり言ってアホじゃないかと思う。ちゃんと記事を読めと言いたい。記事の序盤だけ読んでそういう風に解釈してクソみたいなコメントを書いた人は「自分は頭が悪い」とはっきり自覚してほしい。
「そこに何が書いてあるか」ではなく、「そこに書いてある情報が私のどんなトラウマを刺激したか」でリプライを送るクラスタがいる。そのクラスタに「そんなこと書いてないですよね」と言ってもあまり意味はない。トラウマを刺激されたのは事実なのだから
— スドー🍞 (@stdaux) 2023年10月24日
むしろ、こういうの提示しなかったら、会社側に全部委ねることになるじゃん。会社に生殺与奪の権を与えず、自分側から提案を出来るチャンスなのになぜ拒否るのか。
昔は取説を上手に示せない人でも昔はOJTとか飲み会やらでじっくり時間をかけてコミュニケーションを取って理解してもらうということができたかもしれないがリモートワークも普及してきている時代にそんな事は言ってられない。
特に私は発達障害(ASD)である。
こだわりが強く、ルーチンにこだわり、朝に決めた作業を変更されるのを嫌うという難点がある。集中している時にそれをぶった切られると、一気に精神状態が不安定になり、その日はそれ以降何もする気が起きなくなる。大なり小なりみなさんもそういう傾向があると思うけれど、私はそれが度を越しているから発達障害とラベリングされている。
これを踏まえて正しく取り扱ってもらわないとパフォーマンスが下がりストレスも激増する。そのかわり、正しく取り扱ってもらえた時は自分でも驚くほどスムーズに仕事ができた。
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なので、こういうプロトコルや取説について希望を述べる機会があるなら願ったり叶ったりだ。むしろそういうのがなく「なんとなく」「みんなだいたいこんな感じでコミュニケーション取ってるから」と平均的なコミュニケーションを求められる方がよほど困るのだ。
今後日本も徐々にジョブ型を意識するようになる。そのかわりにチーム全体で帳尻を合わせるというより、個々のパフォーマンスをちゃんと見るようになっていく。個のパフォーマンスを効率的に引き出す必要が出てくる。であれば、ますます「体」というものは重要になってくるだろう。
そもそも、自分というのは今が完成形ではないし、人間関係や役割によって振る舞いが変わるのも当然ではないのか
本音とか「現在の自分」を、恋人でもない人間に受け入れてもらおうとすること自体が相当ナンセンスだと思っている。
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押しつけられたレッテルでも、偽りの役割でしかなくても、本質が邪悪そのものであっても、その行いが英雄のそれであるならば。きっと、私たちのような醜悪な存在が英雄になれるとしたら、そこにしか道は無い。意思すること。本質に、その性さがに、その起源に抗うこと。「貴方の本質じゃない。貴方が意思するその姿が私は好き」
むしろ、自分がこれから目指すことを相手に宣言して、それを周囲の人に助けてもらったり支えてもらうって考えればそんなに悪いことじゃないと思う。
現在の自分にこだわるからおかしくなるんじゃないかな。こういうのを嫌がるというのは「もう今の自分から背伸びしたくない。これ以上なにか変化したり努力したりしたくない。今のままの自分で肯定してほしい」って言ってるように感じる。そういうのがほしいなら恋人作る努力して、どうぞ。 そうじゃなくて「現在の自分」がたとえ駄目な存在であっても自分を肯定したっていいんだよ。現在の自分だけで未来まで否定されてたまるか。
私はそういう意味で、やたらと「本音」をありがたがる人間とか「現在の自己を肯定しよう」みたいな安っぽいYouTube動画を見てる人が嫌いである。「自分の本音」なんか他人にとって価値なんかねえでしょ。思いついたことをなんでもポンポン言って、それが受け入れられるべきと思ってるやつは自分のことを何様だと思っているのか逆に聞きたい。
自分のコトを受け入れてもらいたいという気持ちは理解するけれど、じゃあかわりに自分は相手のことをどれだけちゃんと尊重してるのか振り返ってみてほしい。人が話してる時に、思いついたからと言って脈絡ないことをポンポンコメントして、それがスルーされたら残念がるとかまじで意味わからないです。
「体」というと反発するけど、「物語思考」とか「なりたい自分から逆算して」とか言われら支持しちゃう人はパッケージに騙されがち
ここからはてブ民へのDIS。今回のはてブ民の反応本当にひどかったのでちょっとぐちっておく。特に読む価値はない。
donovantree 「プロトコル」とか「取説」のこと」社会の機能になるための「取説」を自分の中に持てという話。本音とかどうでも良いみたいな感じとか「コンビニ人間」の主人公みたいなのが要請されてるのねという感想。
こういう読解力のない(何を読んでも自分が読みたいようにしか読めない)人は、どれだけネットで記事読んでも何一つ学びを得ることがなくて意味がないからネットやめたほうがいいと思いますよ。というかこの人タイトルくらいしか読んでなくない?どう読んだらこういうコメントが出てくるの?マジで何を考えて生きているのかわからない。ここまでくると気持ち悪いし怖い。