cakes一連の件についてのお詫び|加藤貞顕|note「社員を批判しないで」と言いつつ、「自分が立派な志を持って立ち上げたcakesを他の人に任せたらおかしくなっちゃった。もうちょっとちゃんと見てればよかったわー」ってめちゃくちゃ社員のせいにしてるのはすごい。
2020/12/16 13:30
この件についてですが、私はCakesや加藤さんを責めたいという気持ちは特にありません。当事者でもなんでもないからです。
単にこの記事はおわび文としてはまずいよなって思うだけです。
この記事を見て「どういうところが反発を受けてるんだろう」とか「自分がお詫びするときはどういうところ気を付けたらいいんだろう」って思った人だけ続き読んでください。
自虐お詫びや自分語りなど、お詫びするときに自分を主役にしてしまうと猛反発を受けやすい
おわびで言うところの「反省」とは、内向して、自分を裁くことではない。相手を追体験することだ。
相手目線での反省と、自虐おわびの反省では、ずいぶん「主役の立て方」が違う
おわびのシーンでは、自分の話をとうとうと聞いてもらうな!まず相手の話を聞け!
自分が悪い、自分はダメだ、といいながら、
その実、相手に「そうではない」と打ち消してほしい、「いやあなたはできるから」と認めてほしい、わかってほしい、許してほしいと、
無自覚に人からパワーをもらおうとするから始末が悪い。
「自虐お詫び」になっていないか気を付けなくてはいけない。社会人からみると無自覚である分「自虐お詫び」は自己保身よりもタチが悪い
お詫びとは「反省」「謝罪」「償い」の3要素から成り立つ人間関係における問題解決の手法であって、屈辱でもなんでもないニュートラルなもの
謝罪が大事なのは、道徳の話ではなく、単純にできないと損だから。
やりすごしたところで、問題は解決できない。解決されなかった問題はお互いにいつでも蒸し返すことができる中途半端な状態になり、いつまでもそのことは「負債」や「不発弾」として残り続ける。リスクはどんどん溜まっていく。
なんといっても最大のリスクは、本人の認知の歪みを引き起こすことだ。
起きた問題を負債にしてしまわずにきちんと清算すること。場合によっては新しいコミュニケーションの機会にすることがお詫びの目的。
この認識は人生をかなり生きやすくさせてくれると思っている。
だから、このブログでは何度もこの2冊をお勧めしてる。
半年で職場の星になる! 働くためのコミュニケーション力 (ちくま文庫)
- 作者:山田 ズーニー
- 発売日: 2013/04/10
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- 作者:山田ズーニー
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最近のネットはますます「謝罪すること」それ自体に負の意味を見出す人が多くなっててなんかすごい嫌な気持ちになる
謝罪できたからえらいってわけでもないし、謝罪をしたからといって勝ち負けが決まるわけでもない、っていう認識がもっと広まってほしいんだけれど
実際はその逆というか「謝ったら負けを認めるのと同じ」「謝った人間には何をしても良い」くらいの認識の人がが本当に多いなと思う。
たぶん昔からそういう認識の人が多いんだろうけど、そういう人が主流派になってしまった空間ってめちゃくちゃ息苦しいよね。
そういう空間だととにかく謝罪を避けるために「ノリ」とか「冗談」でいろんなことをごまかすけど
ちょっとずつ解消されなかった不満が積もり積もったり「ノリによる許容」が少しずつ拡張されていって
どこかで「シャレにならない」ことが起きて、その時に問題を解決する手段がないってことになりがち。
こういう「ババ抜き」的な空間になると、「ノリ」や「冗談」を理解できないコミュ障の自分がめちゃくちゃ割を食いやすかった。
今思い返してもああいう「ノリ」や「冗談」がいろんなものを覆い隠してしまう空間が嫌いで、
だから関西人だけど昔から吉本の芸人が出るバラエティ番組が苦手で仕方なかった。
[第二十五話]【推しの子】 - 赤坂アカ×横槍メンゴ | 少年ジャンプ+
とにかく、ちょっとしたいざこざの際に、謝罪によるコミュニケーション修復が当たり前になってほしい。
嫌なことがあったらきちんと指摘する。言われた方はきちんと謝って、きちんと直す。それで仲直り。
そうしないと「スルー力」とか「ノリ」とかそういうので嫌な部分を誰かに押し付けあうゲームになる。
そういうコミュニケーションはサドンデス状態になってストレスが溜まっていく。
ストレスの押し付け合いの流れからカースト意識が出来上がっていく。
そういうのほんとやめようって思う。
自分がやっちゃったことで間違ってることがあったらニュートラルに、きちんと上の3つの要件を意識して謝るようにしてる。
謝罪にあんまり強い意味を持たせすぎない方がいいと思う。
その代わりに、みんなが上の3つの要件を共有して、その3つのやり取りがちゃんと行われていたら、ちゃんとコミュニケーションのチャンネルが開かれるようになってほしい。
アメリカは訴訟社会だけれど「和解」することがとても多いらしい(オフィス北極星情報)。
いがみ合っていた両者がお互いに納得できる着地点を見出すという和解は別に妥協じゃなくて、本来これが理想のゴールだと思う。
その理想のゴールのために謝罪することができる心の余裕があったり、逆に相手側にそれを受け入れる余裕があるというのはとても大事なことだ。
これに対して、ゼロかイチかで勝ち負けがはっきりする世界はもうすでに敵対関係だ。
こういうゼロイチの関係になった時点でもう関係が修復不可能であり、その関係が大事だったのであればたとえ勝ったとしても和解よりはるかに劣る決着ではないだろうか。
和解できることが理想で、それができないときにはじめて勝ち負けを決めることになるというのが筋なんじゃないだろうか。
「和解を目指すための謝罪」と「敵対関係になってからの謝罪」をちゃんと区別したいところだ。